021─高等部二年─
翌日、ドクターストップならぬ桜川くんストップにより授業を休むことになった。ただの寝不足だよ! と訴えても、全く聞いてもらえませんでした。「暇だ……」
しかし気を失った原因が寝不足であることに変わりはなく、たっぷり十二時間は眠った今、僕はすこぶる快調だった。
元気なのに、ベッドでゴロゴロしていると、ズル休みをしている気しかしない。スマホも取り上げられてしまって、いつも以上に時間の経過が長く感じられた。
「勉強でもしようかな」
生徒がいなくなった寮はとても静かで、世界が変わってしまったようだ。静寂の中、時折耳に届く物音は、清掃員さんが掃除をしている音だろう。
ベッドから起き上がり、勉強机に向かう。
けれど椅子に座ったまではいいものの、参考書に手を伸ばす気になれなかった。
参考書を開くのは、毎日、寝る前の日課になっている。それを今やってしまうと、守ってきた進度を崩してしまうことにならないだろうか。願掛けというほどでもないけど、何となくペ─スは乱してしまわない方がいい気がした。
「でも他にすることも……あー、手紙の整理?」
一人でいることに慣れていないせいか、どうしても独り言が多くなる。このままだと寂しさを感じてしまいそうなので、飾ってあるテディベアを片腕に抱えた。
中等部の修学旅行でイギリスに行ったとき、怜くんと眞宙くんの三人で一緒に買ったものだ。皆同じ型のテディベアで、首に巻くリボンの色だけが違っている。僕のは鮮やかな赤、怜くんのはエメラルドグリ─ン、眞宙くんのはオレンジ色といった具合に。
肌触りがいいテディベアの頭を無意識に撫でながら、週一で家族から届く手紙を放り込んだ箱を開けた。
他にも家族からは月一で、僕の好きなお菓子や紅茶の詰め合わせが届く。今ではすっかり差し入れが届くと、生徒会室で消化される流れが出来ていた。
手紙は、両親と二人の兄からそれぞれ送られてくるので、結構な嵩になった。内容は僕の生活を気遣う定型句からはじまり、当人の日常が綴られているものがほとんどだ。
底から届いた順には重ねられているものの、差出人ごとには分けていないので、いい機会だし分別していこうと思う。
捨てようかとも考えたことはあるけど、何となく気が咎めて今に至っていた。
テディベアを片腕で抱えたまま、一通一通差出人に目を通す。そして十通ごとに細い紐で縛っていく作業を黙々とこなす。すぐには終わらない作業に、量の多さが窺えた。
怜くんにとっては、この手紙も異常なのかなぁと思う。
「愛人かぁ……」
言葉を耳にしたことや、実際そう言われている人を見たことはある。けれどその実態については、皆目見当も付かなかった。いいイメ─ジ……ではないよね。それもなんとなく、ではあったけど。
自分がなることなんて想像も出来ない。
でも怜くんの傍にいたいとは思う。
『誰だって、好きな奴に──』
『俺だって愛する人間を傍に置いておきたい』
『俺の愛する人にはなってくれないか?』
『俺だって嫉妬するし、不安にもなる。お前だけの専売特許だと思うなよ?』
昨日はいっぱいいっぱいで、大事な言葉を一つずつ拾うことは叶わなかった。
けどちゃんと記憶には残ってくれていて……これってあれだよね、あの、恋人に向けた言葉みたいっていうか。
「ふへへへへ」
「何、一人でニヤついてるんだ? やっぱりどこか悪いのか?」
「ふぁっ!?」
突然背後からかけられた声に肩が跳ねる。危うくテディベアを落としそうになった。
振り向くと、そこには濃紺の制服姿の怜くんが立っている。
「怜くん!? あれ、授業は!?」
「もう昼休みだ。チャイム聞こえなかったのか?」
慌てて時計を確認すると、時計の針は怜くんの言葉通り、昼休みを告げていた。
「気付かなかった……」
「そんなに集中してたのか? 誰からの手紙だ……って、家族からか。凄い量だな」
「やっぱりおかしく感じる?」
「俺は……というか、他の生徒から見ても、この量はないと思うぞ? 圭吾にも、ここまで手紙は来てないだろ」
「そう言われれば……」
毎度届けられる手紙は僕宛のものばかりで、桜川くんが手紙を受け取ってる姿を見た覚えがなかった。
「手紙を送り合う生徒の方が少ないんじゃないか? 連絡はスマホで取れるしな」
僕の家はまさかの少数派だった。これでも他の家より家族仲はいいなぁっていう自覚はあるんだけどね?
「体調が回復してるなら、昼食にしよう。購買部で適当に買ってきた」
「あれ? 眞宙くんは?」
「南に押し付けて来た。たまには二人で食べるのもいいだろ」
押し付けて来たって……南くんは大喜びだろうけど。
勉強机とは別に置いてあるロ─テ─ブルに、怜くんは買ってきたパンやおにぎりを並べていく。
「あ、お茶淹れるね!」
部屋に給湯の設備はないものの、小さな冷蔵庫は各部屋に置かれていて、食堂に行けばいくらでもお茶の補充が出来た。
怜くんの二人でお昼をするのは久しぶりなので、妙にソワソワしてしまう。お茶をこぼしてしまわないよう気を付けながら、コップをテ─ブルに置き、怜くんの隣に腰を下ろした。
怜くんは色々と買って来てくれたようで、どれから手を付けようか悩む。
「さっきの話だが、家庭環境は家ごとに違うものだ。犯罪でも絡まない限り、正しいかどうかの判別は出来ん。幸か不幸かを決めるのは個人であって、他人ではない。というのが、俺の意見だ」
「うん」
「だから俺たちに培われた価値観に、どちらが正しいかも存在しない」
パンの包装を開けながら発せられた言葉が、昨日の話の続きであることはすぐに気が付いた。
僕が必要以上に悩まないよう、怜くんは言葉を尽くしてくれている。その心遣いに、ジワリと温かいものが全身に染み渡った。
「俺の生き方はもう決まっている。決められている、とも言えるが。それはこの学園に通う生徒にとって珍しいことじゃないだろう。……保、俺は幸せになりたい」
「うん」
「それには、お前の存在が不可欠なんだ」
何てことでもないように言いながら、怜くんは軽く一度、僕の頭に手を置いた。
言われた方の僕は、体が石化してしまったように動けなくなる。
ずっと……怜くんを幸せにしたかった。
それだけが、僕の願いだったんだ。
「怜くん……、僕っ……」
「すまない。泣かせるつもりはなかった」
「ちがっ……、僕、嬉しくて……っ」
まさか直接、僕が怜くんの幸せに関われるなんて。僕を、望んでもらえるなんて。
そんな考えは前世の記憶を取り戻してから、消え失せてしまっていて。
「怜くん、僕、怜くんにっ……幸せになって、欲しいっ」
「保……」
手の平で目を押さえながら俯く僕を、怜くんは抱き寄せた。姿勢を崩して、顔を怜くんの胸に埋める。肩に、背中に、怜くんの腕が回ると、涙は堰を切って溢れ出した。
本当にいいんだろうか。この温もりに包まれて……本当に。
「僕、が……怜くんを、幸せに出来るなら……、僕は、怜くんを、幸せに、したい!」
あぐあぐと半ば喘ぐようにして言い切る。
すると、怜くんの腕に込められる力が増した。
「お前は、俺が幸せにしてやる」
頭上から落とされた言葉に、僕は怜くんを抱き締め返すことで答える。
嬉しい。既に幸せで胸がいっぱいだった。
嬉しい。この気持ちを伝えたいのに、喉からは嗚咽しか出ない。
「うっく……怜くん、大好きっ」
「俺も、保が……好きだ」
こんな幸せでいいんだろうか。
怜くんが、僕に、す、好きって言ってくれるなんて!
ぽわぽわと頬が熱を持つ。
大好き。怜くん、大好き! 怜くんの背中に回した腕に力を込めて、溢れる想いの全てを届けたかった。
ずっとそうして抱き合っていたかったけど、怜くんには午後の授業が待っていることを思い出す。
買ってきてくれた昼食にも手付かずのままだ。
顔も涙で酷いことになっているのは、想像に容易い。
そっと体を離して、顔を洗ってくると告げると、簡単に解放された。離れた体温がちょっとだけ寂しいけど、今は顔を整える方が先決だよね!
洗面所で顔を洗い終えると、そそくさと怜くんの隣に戻った。……なんか正面から顔を合わせづらい。今更照れる間柄でもないんだけど、なんか! なんか!
手近にあったクリ─ムパンの封を開けて咀嚼する。先に甘いものを食べちゃったけど、正直味なんて分からなかった。
あまり噛まずに飲み込んでしまったせいか、パンの固まりが喉を通るとき、一瞬息が詰まる。……よく噛んで食べよう。
盗み見るように怜くんの方に目をやると、先ほどのパンは食べ終えたらしく、次はおにぎりを頬張っていた。横顔からは表情までは分からないけど、怜くんも雰囲気が若干張り詰めてる気がする。
そのまましばらく、二人静かに昼食をとり続けた。
「お茶淹れるね」
「あぁ」
見ればコップのお茶が減っていたので淹れ直す。再度テ─ブルにコップを置いてからも、お互い言葉はなかった。
今まで感じたことのない緊張感に戸惑う。
こういうとき、どうすればいいんだろ……。
普通にすればいいと思うんだけど、その『普通』が思い出せない。いつもどんな感じで傍にいたっけ?
とりあえず何か話せば空気が和むかと思って口を開く。
「あ、あのさ!」
「何だ」
「さっきの、幸せにするって……こ、恋人同士の、プロポ─ズみたいだったよね!」
僕は前々から思ってたことだけど、本人に伝えたのは今日がはじめてだ。それに怜くんも……。
『お前は、俺が幸せにしてやる』
うへへ─! 頬が緩むのを感じて、手で隠す。
目に見えて浮かれる僕に水を差したのは、怜くんの低い声だった。
「……みたい?」
「え?」
「前々から確認すべきかと思ってたんだが、お前は俺との関係をなんだと思ってるんだ?」
「幼馴染み?」
今更な質問に、こてん、と首を傾げる。
そんな僕の頭部を、怜くんは片手で掴んだ。
「痛い痛い! 怜くん、痛いよ!」
「お前は、幼馴染み相手に体を許すのか!? 眞宙にもか!?」
「えぇっ!? 眞宙くんとはしないよ!?」
ギリギリと指に力を込められて、涙目になる。片手で人の頭を掴める怜くんの手の大きさに驚きだ。そういえば指が長いから、楽器の中でもピアノが得意なんだっけ。
しかし素直に答えたのに、この仕打ちは酷い。眞宙くんとのことを否定したら、手は放されたけど。
「うぅ、酷い……」
「酷いのはどっちだ。俺とお前の間にある関係は、幼馴染みだけなのか?」
「あ! 怜くんと、その親衛隊長! ……待って! アイアン・クロ─は止めて!」
眼前に怜くんの手の平が見えて、顔を背ける。
「はぁ……他には」
「他? ん─と、生徒会長と書記?」
思い浮かぶのはそれぐらいだった。怜くんには別の答えがあるんだろうか?
正解は何? と尋ねる前に背中が床に着く。
天井が見えた次には、怜くんの顔が迫っていた。
「んっ」
口付けられ、唇が吸われる。
急な展開に思考が追いつかない。正解を出せない僕に怒っているのかと、恐る恐る見上げれば、怜くんは仰向けに転がる僕に体を預けた。
「俺の自業自得か……」
「怜くん?」
床に体重が分散されているので、上に乗られても苦しいとは思わない。ただ頬にかかる怜くんの銀髪がくすぐったかった。
「言葉にしなくても、通じると思ったんだ。俺は嫌いな相手を傍に置くほど酔狂じゃないからな」
「うん……?」
それは知っている。怜くんの取り巻きになりたい人はごまんといるけど、近付ける人は限られていた。
怜くんが床に手を着いて、上半身を少し起こす。
正面から目が合った碧い瞳は、いつも以上に艶めいて見えた。
「お前と肌を合わせられるようになって、十分気持ちは伝えられていると思ってたんだ。…………好きだ、保。お前を愛してる。俺はずっと……お前とは、恋人同士だと思っていた」
「…………」
端正な顔の、薄い唇から紡がれた言葉に、生きているのを忘れた。時が止まったような錯覚に、頭の中に虚無が広がる。
え? 怜くんが、恋人? えっ?
僕が固まっている姿を見て、怜くんはくしゃりと表情を歪めた。
「そこまで驚くことか」
「だって……え? え!?」
「キスして、体を触れ合えば、自ずとそういう関係だと認識するだろう」
「僕は……その、怜くんが、性欲を持て余してるだけかなって……」
「…………」
今度は怜くんが黙り込む番だった。
片や僕は、あわあわと言い訳をまくし立てる。
「高等部に上がってからのことだしっ。親衛隊員には、高等部の間だけでもっていう子が多いし! 遊びってわけじゃないけど、期間限定の……その、後腐れない関係っていうか……。まさか真剣に関係を考えてくれてるとか思わなくて」
「分かった、それ以上言うな。自分で自分を殴りたくなる」
はぁ─……と長い息を吐いて脱力した怜くんは、頭を僕の胸に乗せた。
「お前はそんな関係だと思いながら、俺に好きだと言ってたのか」
「僕が一方的に怜くんの好きなのは、問題ないかなって」
「……どうしてもっと求めない。好きな相手には気持ちを返してもらいたいものだろう。言葉足らずだった俺が言える筋合いでもないが」
「ん─と……」
中等部からずっとこのスタンスだったので、自分でも明確な理由をすぐに思い出せない。前世の記憶がきっかけだったのは確かなんだけど。
「求めても、返されるとは限らないことに気付いたというか……。結局のところ、誰かを好きだと思うのは、自分の勝手なんだよね。他人に止めろと言われて、止められるものじゃないし」
強いて言うならば、そんなところだろうか。
「もちろん気持ちを返されたら嬉しいよ! でも僕の勝手に、無理に付き合わせるのは違うかなって」
ずっと、ずぅ─っと怜くんが好きで。その気持ちの大きさに、自分でも引いてしまっているのかもしれない。
積もり積もったこの想いを、返してくれなんて、恐ろしくて口に出せないほどには。
「そういう考え方にさせたのも俺の責任か」
「……かもね。物心ついたときから、僕は怜くんにしか恋をしてないし」
「…………お前は、俺を喜ばせるのが上手くて困る」
「そう……?」
どちらかというと、よく怒られてる気がするけど。
でもまさか恋人だって思ってくれてたなんて……! 気を抜くとすぐにでも顔が変形してしまいそうだ。
しかし、ふと、あることに気付いて背筋が冷える。
緊張が伝わったのか、怜くんが僕の胸から顔を起こした。
「どうした?」
「え……いや……」
「何でもないという顔じゃないぞ」
問われて冷や汗が滲む。
どうしよう……僕、からかわれたのも含めて、何回か眞宙くんとキスしちゃってるんだけど。眞宙くん的には、あやしてくれてる延長なんだろうと、今まで深く考えたことはなかった。
けど怜くんからしてみれば恋人だと思ってる僕が、他の人とキスしてるわけで……あわわわっ。
「保、話せ」
「あの……」
「話せ」
「眞宙くんと、その……」
「眞宙と、何だ?」
眞宙くんの名前を耳にした途端、怜くんは両手を床に着いて起き上がった。既に顔が険しい……!
「き、キスし……怜くん!?」
言い終わる前に、怜くんは立ち上がり、部屋を出て行こうとする。
「先に眞宙を殴ってくる。あいつは俺の考えも、気持ちも知ってるはずだからな。お前は俺が戻って来るまで、その警戒心のなさを反省してろ」
止める間は一切なかった。
というかドアの前に立った怜くんは無表情になっていて、その温度の無さに後を追うのを躊躇われた。
どうしよう。
氷の帝王様を降臨させてしまった。