019─高等部二年─

 眞宙くんに前世の記憶を打ち明けた結果、BLゲ─ム『ぼくきみ』のシナリオ通り、僕が七瀬くんに嫌がらせをするのは、しばらく見送ることになった。
 頑張ろうと気合いを入れ直したところだったんだけどね。
 食堂での対立イベントとか、こちらが意図していなくても同じ状況は発生したから、流れに身を任せるのもいいかなぁと、眞宙くんに言われて考え直したのだ。
 相談相手がいるって素敵!
 眞宙くんに余計な心配をかけないために打ち明けたのに、逆に僕の心労を減らしてもらっている。

 とにかく今は盗み聞きの件を、七瀬くんに謝らないと。
 放課後、怜くんを迎えに行くときに、一緒に謝ろうと眞宙くんとは話し合っていた。
 そして今、正に怜くんの教室に向かうため帰り支度を整えていたら、突然、僕の目の前に七瀬くんが現れた。
 それも、いつもとは違う姿で。

 もっさりとした黒髪と、分厚い瓶底眼鏡はどこへ行ったのか。髪はストレ─トになり、パッチリとした目元が露わになっていた。周囲からは「あの美少年は誰だ?」という声が湧く。
 僕が、目の前の美少年を七瀬くんだと分かったのは、画面越しに見覚えがあったからだ。
 描かれていたイラスト通りの、絶世の美少年が口を開く。

「一体、お前は何を考えてるんだよっ!」

 急に怒鳴りつけられて、思わず半歩退いてしまった。
 後ろに倒れ込んでしまわないよう、眞宙くんが腕を伸ばして僕の背を支えてくれる。

「いきなり罵声を浴びせるなんて、どういう了見かな?」
「佐倉は知ってるのか!? こいつは親衛隊長だからって、人のプライベ─トを盗み聞きしてたんだぞ!」

 僕に代わって口を開いた眞宙くんに投げられた、『盗み聞き』という言葉に教室の中がざわつく。そしてクラスの皆も、口調で彼が七瀬くんだと分かったようだった。

「盗み聞き? そこまでするのか?」
「マジで? 盗聴器使って?」

 真相を知らないクラスメイトの声が僕の元に届く。
 ごめんね! 使ったのは、皆の部屋にもあるガラスのコップだよ! どうせ僕の発想は幼稚です!
 上村くんに『お前は小学生か?』と言われたのは、ちょっとショックだった。
 きっと七瀬くんも、事の顛末を上村くんから聞いたんだろう。
 けど、まさか教室に乗り込んで来るとは思わなくて、僕はただただ目を見開いていた。

 こんなイベント、あったっけ?

 ゲ─ムとは違い、現実である分、流れが変わっているのだろうか。
 次に僕が七瀬くんと対立するのは、ゲ─ム終盤、僕への断罪イベントのはずだった。それまでの僕の悪事が、赤裸々に語られる場面だ。
 七瀬くんが、身なりを整えて、本来の美少年の姿を晒すのもそのときで…………もしかして、流れが加速してるの?

「毎朝の嫌がらせも、どうせお前の指示なんだろ!?」

 七瀬くんのこの言葉で、考えが確信に変わる。似たような台詞を、画面越しの断罪イベントで見ていたからだ。
 毎朝の嫌がらせについては初耳だけど、ここまで来れば僕の行動は決まっている。

「盗み聞きの件については謝るよ! ごめんなさい! でも、そもそも君が内部生を煽ったのがいけないんだ! 君こそ、怜様の負担を増やさないでよ!」

 なんにせよ謝らないと! と、頭を下げた。
 けど、どうして七瀬くんはこうも思い込みが激しいのかと、不満を持ってしまったからか、意図していなかった言葉が飛び出す。
 食堂のときも、ボ─ルを当てた犯人にされかけたし。何でも事柄を、直線で繋ぎ過ぎなんじゃないだろうか。

「お前は名法院の何なんだ!? たかだかファンクラブの会長ってだけだろ!? お前のせいで、あいつのプライベ─トがなくなってるんだぞっ!」

 ケンカ腰の僕の言葉に、七瀬くんも止まらない。

「前に食堂で、俺が誰かを好きになったことはないようなこと言ったよな? あのときは、そうだったよ。けど、今は違う。だから今、あのときの反論をさせてもらう。お前らのやり方はやっぱり間違ってる! 好きな相手の意思を無視するようなやり方はな!」
「君の好きな相手って、怜くんのこと?」
「そうだよ。だから直接、湊川に文句を言いに来た」

 たじろぐこともなく、真っ直ぐに七瀬くんは気持ちを認めた。その潔さが、画面越しに見た、いつかの彼と重なる。
 七瀬くんの堂々とした姿を目の当たりにして、胸が、きゅぅと痛くなった。
 ……やっぱり僕じゃ、彼には勝てない。
 問題を先送りにして、現実から目を逸らしている僕じゃ。

「お前も本当に名法院のことが好きなら、不毛な関係は止めて、真っ向から勝負しろよ」
「僕、は……」

 七瀬くんの黒い瞳が僕を射貫く。
 同じ色の瞳なのに、彼の瞳は輝いて見えた。
 芯が強くて、美しい人。
 曇りのない瞳に見つめられて、声が震える。

「僕は……ダメだ……」
「は? 何でだよ!」
「僕は! 君みたいに強くないんだ! 終わりが見えてる関係に、真っ向から挑む度胸なんてないんだよ!!!」

 心からの叫びに喉が引き攣って痛い。
 現実なんて見たくない。ずっとこの箱庭で夢を見ていられるなら幸せだった。
 けど、現実は、とても残酷で。
 僕と怜くんの関係なんて、簡単に引き裂いてしまう。

「何の、話だ」

 聞こえた声は正面からじゃなかった。
 教室にいる全員が、一斉に声の元へ顔を向ける。
 怜くんが姿を見せると、教室は静まり返った。

「保、何の話を、している?」
「怜くん……」

 一歩一歩、怜くんは言葉を切りながら、僕に近付いた。
 その迫力に気圧されるけど、後ろで眞宙くんが僕の背を支えていて、この位置から下がることは出来ない。

「終わりが見えている関係と言ったか? それは誰と誰のことだ」
「怜くん、僕は……」

 言い淀む僕に、怜くんが手を上げる。
 ビクリと体が弾み、咄嗟に目を瞑った。
 次の瞬間、顔に痛みが走る。怜くんの片手が、僕の顔を覆っていた。

「痛いっ! 痛いよ、怜くん!!!」
「お前は、どうしてそう、勝手に、結論を出すんだっ!」

 怒鳴られているのは分かるけど、痛みで内容が入ってこない。

「怜、昼にも言ったけど、今日の保は寝不足だからアイアン・クロ─も程ほどにね?」
「寝不足がこの発言の原因か?」
「それについては、黙秘するよ」
「どうやら保とはじっくり話し合う必要がありそうだな? 眞宙はしばらく部屋に帰って来るな」
「何なら話し合いに俺も同席していいんだけどね。一時間したら帰るよ」
「ちっ……保、行くぞ」

 ようやく顔を解放されて、ほっと息をつく。しかし間を置かず、怜くんに腕を引かれた。
 問答無用に引っ張られるけど、七瀬くんの隣まで来ると、怜くんは立ち止まる。

「お前の声は通るから、教室の外からでも話の内容は聞こえていた。ボ─ルを当てたのも、毎朝の嫌がらせにも、保は関与していない。犯人は板垣先輩の親衛隊だ。朝、上村が現行犯で捕まえるところに、俺も立ち会った。今頃上村たち風紀委員が事情聴取に向かっているだろう」

 怜くんの言葉に、なんでチャラ男先輩の親衛隊が? と僕は首を傾げる。
 七瀬くんは、怜くんのル─トに入ってたんじゃ……?
 位置的に壁になっている怜くんから顔を出し、七瀬くんを窺うと、彼は顔を顰めていた。

「やっぱり親衛隊なんてロクなもんじゃない」
「褒められた行為ではないな」
「名法院もこれで親衛隊がどういうものか分かっただろ!? 湊川だって、人のプライベ─トを盗み聞きするような人間なんだぞ!」
「ガラスのコップでな」

 怜くん、そこ言及する必要ある!? どうせ僕は思いつきが小学生ですよ!
 怜くんの登場で口をつぐんでいたクラスメイトたちが、再びざわめき出す。

「ガラスのコップ?」
「なぁ、ガラスのコップでどうやって盗み聞きするんだ?」

 あっ、やり方を知らない人もいるんだね。そこはスル─でお願いします!

「板垣先輩の親衛隊の行為は、決して褒められたものじゃない。だが七瀬、俺はだからといって他の親衛隊全てがそうだとは思わない」
「何でだよ!?」
「お前より親衛隊の事情について詳しいからな。そういうお前は、親衛隊について何を知っている? 眞宙や上村の親衛隊について、知っていることはあるのか?」
「……各々の親衛隊については知らない。けど、親衛隊がどういう存在なのかは知ってる!」
「板垣先輩に教えられて、か?」
「そうだよ! 板垣先輩もずっと親衛隊に悩まされてきたんだ。『様』付けで呼ばれて……」
「『オレは、普通に接してもらいたいんだ。特別扱いして、オレを孤独にしないで?』か? それは板垣先輩の口説き文句だぞ」

 聞き覚えのあるフレ─ズを怜くんが口にする。
 僕も言われた覚えのあるものだ。
 え? もしかして七瀬くん、その言葉通りに信じちゃったの? どれだけ純粋なの!?

「七瀬、お前にとって板垣先輩は、お前に言い寄るために親衛隊を切った誠実な人間なのかもしれないが……今まで散々弄んできた相手を、説明もなく切り捨てる人間が、本当に誠実だと言えるのか?」
「説明もなく……?」

 思わず声が漏れた。
 僕の声を眞宙くんが拾う。

「保は最近怜のことで頭がいっぱいだったから知らないだろうけど、板垣先輩は一方的に、親衛隊との関係を絶ったんだよ。それこそ金輪際、視界に入るなとまで言ってね」
「酷い……」

 七瀬くんという本命が出来たから、体の関係を止めるというのは納得出来る。でも視界に入るなって、どういうこと?
 チャラ男先輩が言えば、親衛隊の人たちは従うだろう。だからこそ、もっと他に言い方があったはずだ。
 次に眞宙くんは七瀬くんへ視線を向ける。

「七瀬くんもその場にいたんだよね?」
「だけどそれは、親衛隊が特権だとか言って、板垣先輩に無理矢理体の関係を迫るから! 湊川だってそうだろ!?」
「僕は無理矢理関係を迫ったことなんてないよ!?」

 矛先を向けられて、咄嗟に言い返す。
 だから誰なの!? 七瀬くんに間違った親衛隊の情報を流したのは!?
 怜くんも、すかさず僕の言い分を認めてくれた。

「その通りだ。俺は保から迫られたことはない」
「嘘だ!」
「お前が信じてる、板垣先輩の言葉が嘘なんだよ」
「そんなことない! だって……」
「板垣先輩は、悪い親衛隊を切った誠実な人、だからか? お前は、俺のことを好きだと言うわりに、俺の言葉は信じないんだな?」
「違う! 名法院は、幼馴染みだから、湊川を庇ってるんだ!」
「それで、眞宙の言葉も幼馴染みだから、圭吾の言葉も同室だからと言って信じないのか? 救いがたいな」
「…………」

 遂に七瀬くんは黙り込んでしまった。
 あれかな……もしかして七瀬くんて、チャラ男先輩の信者なの? 実は親衛隊寄りの人なの?
 いくらなんでも、チャラ男先輩を信用し過ぎじゃない?
 気付けば教室内のざわめきが消え、シン……とした空気の中に、眞宙くんの乾いた笑いが響く。

「恋って厄介だよね。誰もかれも、自分をよく見せようとして、自分の見たいものしか見ない」
「眞宙、それは俺に対する嫌味か?」
「怜に向けてでもあるし、七瀬くんも、板垣先輩もそう。保の場合は、変化球過ぎるから今は置いておくけど」

 前世の記憶があるからだろうか。眞宙くんは僕を見ると苦笑した。

「板垣先輩は、七瀬くんに良く思われようと、親衛隊には特権があると嘘をついて、自分を被害者のように見せかけた。七瀬くんはそれを信じることで、怜と保の間に、自分が入り込める余地があると思いたかった」
「えっ、じゃあチャラ……板垣先輩が、七瀬くんに間違った親衛隊の情報を流したの!?」

 自分を良く見せるためだけに!?
 驚く僕を、怜くんが頭を撫でて落ち着かせる。

「そうだ。しかも七瀬に話を聞く限り、それが真実だと何故か信じて疑わない。これについては眞宙の推測が正しそうだな。……そして遂には、板垣先輩の親衛隊の不満が、嫌がらせという形で顕現したんだ」
「じゃあ全部、板垣先輩の嘘からはじまったってこと?」
「板垣先輩の常套句を信じてしまった七瀬にも、一因はあるがな。そこに先輩は惚れたんだろうが……迷惑な話だ」

 一つ溜息をつくと、怜くんは七瀬くんと向き合った。
 見える怜くんの背中に、わざと彼が僕と七瀬くんを遮っているのだと気付く。……もしかして七瀬くんから守ってくれてるの?

「板垣先輩の嘘は、他から話を聞けばいくらでも見破ることが出来た。だが、お前は敢えてそうしなかった。俺はこれでもお前に期待していたんだ。俺と真っ向から言い合える人材は限られてるからな」
「……見損なった、ってこと?」

 聞こえてくる七瀬くんの声は、僕と言い合ってたときが嘘のように、か細かった。