017─高等部二年─

「何っ!?」
「保!?」

 怜くんの親衛隊員である二人が七瀬くんに詰め寄ったのは、僕の指示だという言葉に、声を荒げたのは上村くんだけじゃなかった。
 隣に座る眞宙くんが僕の名前を呼びながら、大きく振り向くのを気配で感じる。逆サイドの隣に座っている親衛隊員からも強い視線を受けた。
 そんな中、風紀委員長である上村くんの低い声が響く。

「湊川、どういうことか、説明しろ」
「昨日の部屋でのことについて、七瀬くんに詳細を確かめて欲しいという僕の意を、彼らが汲んでくれたんだ」
「それがお前の指示だったと? 確かなのか?」

 僕の答えを聞いて、上村くんは親衛隊員二人の方へ鋭い視線を向ける。
 肩を震わせる新山くんに、大丈夫だから。そう気持ちを込めて、僕は彼の手を握った。

「保……」

 眞宙くんが静かに僕の名前を呼んだ。その声音が聞いたことのないもので、背中に一瞬ヒヤリとしたものが走る。けれど、ここで挫けるわけにはいかない。

「上村くん、僕の指示だったんだ。詰め寄る際に、つい力が入ってしまったのかもしれないけど、彼らにそれ以上の意思はなかった」
「お前が責任を取るんだな?」
「取る」
「名法院にも聞いた通りに報告するぞ」
「……うん」

 きっとこれで僕は完全に怜くんから嫌われるだろう。そう思うと、少し返答に間が空いてしまった。
 しかし発端は、僕が隣室から七瀬くんの部屋の様子を確認しようとしたことにある。ならば最終的な責任も、僕が取るべきだ。

「はぁ……何故だ、湊川。お前なら、何か聞きたいことがあれば、直接問い質すだろう? 前に、お前自身がそう言ったんだぞ?」

 上村くんの言葉に、いつかのやり取りが脳裏に浮かぶ。

『湊川が個人的に文句を言いたいだけじゃないのか?』
『だったら、わざわざ提案なんかしないで、個人的に七瀬くんに文句を言うよ。皆の前で言うのが大事なの』

 あれは食堂で僕と七瀬くんが対立するときの話だ。
 正にその通りなので、そこを突かれると痛い。

「それに私はお前が親衛隊について、真摯に向き合っていることを知っている。人気のない場所に行くなと、一番注意しているのはお前だろう」
「……だからかな。おかげ様で人気のない場所についての情報は、揃ってるし」
「保! いい加減にしなよっ!」

 いつにない眞宙くんの大声に、体が跳ねた。

「上村くん、悪いけど、ちょっと保と席を外すよ」
「……分かった。私はこちらの二人から詳細を聞いておく」

 えっ、と思ったときには、眞宙くんに腕を引かれて立たされていた。

「眞宙くん!?」
「今の保は、見ていられない」

 眞宙くんはそう言うと、僕を引き摺るようにして風紀委員室から出た。
 その先で、僕が眞宙くんに放り込まれたのは、隣の会議室だった。よく南くんや柳沢くんといった親衛隊のたまり場になっている場所だ。けど、今は誰もいない。
 眞宙くんは僕を会議室に放り込むと、自分は中に入らずドアを閉じた。

「眞宙くん!?」
「しばらく頭を冷やすといいよ」

 鍵はかかっていないはずなのに、取っ手に手をかけても、外から眞宙くんが押さえ込んでいるのか、ドアはビクともしなかった。
 ガチャガチャという無慈悲な音だけが会議室に響く。

「どうしよう……」

 何が眞宙くんの逆鱗に触れたのか分からない。
 でも明らかに眞宙くんは怒っていて……。
 閉じ込められた理由が分からず、途方に暮れた僕は、力なく手近にあった椅子に腰を下ろした。
 関係ない怜くんの親衛隊の事案に、付き合わせてしまったのが悪かったのか。
 それとも────。

 どれくらい項垂れていただろうか。
 前触れなく開かれたドアの音を聞いて、顔を上げる。

「まひ……怜くん!?」
「…………」

 驚いたことに、ドアの前に立っていたのは眞宙くんじゃなくて、怜くんだった。
 しかも、いつになく表情のない怜くんに戸惑いを覚える。
 怜くんは無言で会議室に入ると、椅子を一脚引き寄せ、僕と向き合う形で座った。

「どういうことだ」

 怜くんの声は重く、その一言で、会議室内の空気が凍るのを感じる。
 風紀委員室での緊張感とは、まるで比べものにならない。
 目の前に刃物を置かれたような、身動きのとれない空気に、僕は口を開くことさえ叶わなかった。露出している肌がピリピリとした痛みを覚える。

 どうして、怜くんが、ここに。
 それも眞宙くん同様に、怒って。

 言葉を発することも出来ず、疑問ばかりが頭の中をグルグルと回る。
 答えない僕に、怜くんが更に言葉を重ねた。

「眞宙から、風紀委員室でのことを聞いた」

 あぁ……それで。
 ようやく怜くんと眞宙くんが怒っている理由に合点がいった。二人は知ったんだ、僕が親衛隊員に指示を出して、七瀬くんに詰め寄らせたと。
 眞宙くんが七瀬くんと一緒にいる姿を見たことはないけど、BLゲ─ム『ぼくきみ』の攻略対象であることに違いはない。僕の知らないところで交流があっても不思議じゃなかった。
 二人は七瀬くんのために怒ってる。
 だから、怜くんも眞宙くんも……こんなに本気なんだ。

 風紀委員室で聞いた眞宙くんの声は、今まで聞いたことがなかったもので。
 目の前にいる怜くんは、指先が凍ってしまいそうになるほど、冷たい雰囲気を漂わせていた。

 こんな、二人を、僕は知らない。
 小さいころからずっと一緒だったのに。
 体が、心が、震える。七瀬くんは、二人をここまで変えてしまえる存在なのかと。

 怜くんの怒気には、彼に嫌われてしまう恐怖とは、また別の怖さがあった。
 今までだって幾度となく、怜くんに怒られることはあったのに。
 ここまで人が変わった怜くんを、僕は見たことがなくて……。
 視線の先で、怜くんが薄い唇を開く。
 どんな罵倒が飛び出してくるだろうと、震える両足を拳で押さえ付けた。ぎゅっと両目を瞑る。

「親衛隊員の二人を庇ったそうだな? 何故そんなことをした」
「それ、は……」

 聞こえてきた予想外の問いかけに、思わず閉じたばかりの目を開けた。
 いつも以上に怜くんの声音は低いものの、静かに投げかけられた内容に頭が真っ白になる。
 けど、答えないという選択肢は与えられていない状況に、無理にでも口を開いた。

「庇った、つもりは、なくて……。僕は、僕の責任を果たそうとして……」
「お前の責任とは?」
「僕が彼らの部屋を借りなきゃ、こんなことにはならなかった……から」

 乾きを覚える口で、なんとか言い繕う。
 僕が、彼らを巻き込んだ。
 だからその責任を、と。
 答えを聞いた怜くんは、溜息をつきながら、銀色のサラリとした髪を掻き上げる。会議室の蛍光灯の明かりでも、怜くんの銀髪は輝きを見せた。足を組んで行われた一連の仕草に、現状を忘れて見入ってしまう。

「ではやはり指示は出していないんだな?」

 そんな怜くんの言葉で、僕は我に返った。

「それは……彼らが、僕の意を汲んで」
「はっ」

 皮肉げに怜くんが笑い飛ばす。
 その瞳はどこまでも冷え切っていて……こんな目をする怜くんを、僕は知らない。
 氷のようだと称されるのは外見が理由で、実際の彼はただ不器用なだけ……ずっと、そう思っていた。
 けど今、目の前にいる怜くんは。

「本気でそう思ってるのか? 隙あらば、お前に成り代わろうとしている奴らが、お前の意を汲むと? あいつらが好きなのは名法院 怜であって、湊川 保ではないと言うのに?」

 容赦なく、僕に冷や水を浴びせる。
 それは……そうだ。自意識過剰でもなんでもなくて、皆、怜くんのことが好きで、親衛隊に入っているのだから。意を汲んだというのは、方便でしかない。

「あいつらがお前を隊長として認めているのは、他の誰かよりはマシだというだけだ。自分がその地位に就けるなら、喜んでお前を蹴落とす。名法院にはそれだけの価値があるからな」

 怜くんの手が僕の頬に伸びる。
 いつもなら自然に受け入れられるのに、指が頬に触れた途端、僕はビクついた。

「俺が怖いか? だが俺を怒らせたのは、お前だ。……お前のことなんて、一ミリも考えていない奴らを庇うなんてな。しかも手まで握ったと聞いたぞ」

 頬に触れていた指が下へ伝い、顎を掴まれる。
 怖い。力を入れられているわけではないのに、心臓がきゅぅっと縮んだ。

「相手が眞宙なら、百歩譲って許そう。南も、桜川も人となりが知れているから、まぁいい。だが、他の奴は、許せん」
「れい、くん……」

 凍てつく眼差しは、いつも僕に向けられるものではなくて。
 近付いてくる碧い瞳は、異国の海を見ているようで。
 小さい頃から知っている人のはずなのに、目の前にいる人が、誰か、分からない。
 震える唇が塞がれる感触に、血の気が引いた。

「やっ……!」

 咄嗟に、怜くんの胸を押して距離を取ろうとするけど、呆気なく手首を掴まれる。

「やだ! 怜くん、怖いっ!」

 放して! と手を引くけど、固定された手首は動かなかった。そのことが余計恐怖を煽る。掴まれた手首が痛い。
 いつもなら、逃げられた。
 逃げれたんだ。
 ここではじめて、僕は手加減されていたことを知る。怜くんが、逃がしてくれていたことを。
 だって本気の怜くんは、僕ごときの力じゃ微動だにしない。

「保、約束出来るか」
「なに……」
「二度と、自分が不利になる嘘をつかない。安易に他人に触れたりはしないと」

 嘘をついたつもりはなかった。僕は、原因が僕にあることを上村くんに伝えたかっただけだ。
 でもそこで紡いだ言葉は、嘘でしかなく。
 怖くて逸らしていた顔を、怜くんに向ける。
 そっと表情を窺うと、想像していたものとは全く違う、怜くんの顔があった。声音通り、眉根を寄せてはいるものの、彼の表情は悲しそうで。

「怜くん、ごめん……っ」

 傷付けたんだ。
 ただ怒らせたんじゃない。
 嘘をついて、よく知りもしない親衛隊員の手を握ったことで。
 僕が、怜くんを傷付け、そして怒らせた。
 そのことをやっと認識すると、恐怖感が薄れ、代わって別のものがこみ上げてくる。
 僕には打算があった。
 この件を、僕のせいにすれば、上手く怜くんのル─トが進むんじゃないかって。これから僕は七瀬くんに嫌がらせをしていかないといけない。その一つに出来るって。
 僕が怜くんに嫌われる。ただそれだけだって。

「ごめん! まさか怜くんを傷付けるなんて、思わなかったんだっ!」
「謝罪はいい。約束しろ」

 怜くんは自分のことより、僕に約束させることを優先させる。
 約束する。と、頷くと、怜くんはやっと掴んでいた手を放して、僕の背中に腕を回した。
 ぎゅっと抱き締められる温かさは、いつもと同じだ。ただ回された腕には力が入っていて、少し背中が痛かった。

「眞宙も、この件については怒っている」
「それは……怜くんと同じ理由?」
「そうだ。だが眞宙は俺に対しても怒っているんだ」
「怜くんにも?」

 なんで? と顔を上げる。
 しかし体が密着し過ぎていて、怜くんの顔を見ることは出来なかった。

「俺が保に嫌われるのは勝手だが、そのせいで保が非を負うことになるのでは話が違うとな。だからせめて昨日の件をしっかり説明しろと」
「昨日……七瀬くんの部屋でのこと?」
「生徒会室では、はぐらかすような形になっていたからな」

 怜くんの吐息が僕の前髪を撫で、その後を言葉が追う。

「やましいことはなかった。だが……保と似た状況に陥ったんだ」
「僕と似た……?」
「資料室でケ─ブルに絡まったときのことは覚えてるだろう? 七瀬との話が終わった後、七瀬の頭上から梱包用のビニ─ル紐が落ちてきた。そして絡まった。俺が解くのを手伝ったんだが……七瀬にとっては気まずい時間だっただろう」

 それはやはり僕が知っていたイベント内容で。

「俺としては、やましい気持ちは一切なかった。が、ビニ─ル紐を解く途中で、七瀬が反応したのも事実だ。七瀬の了解も得ず話すのはどうかと思い、生徒会室では言えなかった」

 けど少し、というか怜くんの反応が違う気がする。

「何度も言うが、やましい気持ちはなかったからな!」

 妙に口調が説明というより、釈明しているように聞こえるのは、気のせいだろうか?
 相変わらず、怜くんの表情は窺えない。

「う、うん。でも、僕に話しちゃっていいの?」
「七瀬からの了解は先ほど得た。そのこともあって俺は保健室へ行ったんだ。お前らは勘付いているようだったしな」

 そこでようやく、怜くんの腕から力が抜けた。
 改めて怜くんの胸との間に空間を作り、怜くんを見上げる。するとそこには心配げに、僕を見下ろす怜くんがいた。
 これまた見た記憶がない顔に、一瞬動きが止まる。
 怖いと感じたさっきまでの怜くんとは百八十度違う、どこか頼りなさそうな彼に、心の中で誰? と呟いた。
 この短時間で知った怜くんの一面に、僕は今まで彼の何を見てきたんだろうとも思う。

「俺のことを、信じるか?」

 そう僕に尋ねる怜くんの声は、微かに震えて聞こえた。