010

 シドの話に懐かしさを覚えながらも、じっとしていられなくてトレイから下り、テーブルからも下りて、死体のオレに近づく。

「ん? やはり惹かれるか。父上は万物を魅了してしまうからな……」

 はいはい。
 それよりオレはお前のお美しい父親の脇腹に空いた穴が気になるんだが?
 シドの魔法をもってしても修復出来なかったのか?
 アクセサリーを外され、服を脱がされた体は、脇腹の穴以外は見事に生前通りに修復されていた。横に細長く……といっても五センチほどだが、空いた穴は刀身が突き刺さった跡のように見える。

「あぁ、これか? これは勇者が父上を突き刺した跡だ。どうしてもこの傷だけは勇者の力が込められているのか、修復することが叶わなかった……」

 どうやらオレの死因らしい。
 うーむ……レイのことといい、ピンクスライムに転生したせいか、記憶が抜け落ちてる部分があるんだよな。
 何か思い出せないかとゼリー状の体を伸ばす。

「こらっ、ダメだ! 汚すとワタシがロロに怒られる。ロロは父上にご執心なんだ」

 んなことは知らん。というかご執心も何も、もう死んでるだろ、オレ。
 といってもこんなことでシドが殴られるのも可哀想なので、肌には触れず、傷口に体を挿入した。そこからヌルリと中へ入り込んでいく。

「……キミは実に聞き分けがいいな? だからここまで生き残れたのか……?」

 不思議と、まるで吸い込まれるかのように、ピンクスライムの体は死体の中へ収まっていった。
 勇者に刺された傷口から動脈、静脈を通り、毛細血管にまでゼリー状の体が行き渡る。考えるまでもなく体が勝手に動いていた。
 乾いた布に水が染み込むような、そんな速度でオレが浸透していく。
 以前レイの服をトンネルに見立てたときとは段違いの、狭く暗いトンネルを通り続け、駆け巡ったピンクスライムのゼリー状の体は、いつしか心臓に行き着き、脳にまで到達した。

「何だ……これは……?」

 死体の外から聞こえるのはシドの声か。
 呆然とした声を聞いている間にも、脳髄の代わりにピンク色のゼリーが満ちる。
 瞼を持ち上げると、暗闇しかなかった世界に、光が差した。
 目の前には目を見開いたシドが、オレに向かって手を伸ばしている。

「父上…………?」
「いや、オレはピンクスライっ!?」

 言葉が終わる前に、シドに抱き締められた。

「その麗しい外見にそぐわない軽い口調は、まさしく父上……!」
「最後まで言わせなかったクセに、何言いやがる」
「父上ーっ!!!」

 あ、やぶ蛇だった。
 そしていつの間にかピンクスライムの上にいたヘビは、オレの肩に巻きついている。
 前世の体に戻る……入る? というのは中々奇妙な感覚だ。
 だがおかげで抜け落ちていた記憶を取り戻すことが出来た。脳にまでピンクスライムの体が染み込んだからだろうか。
 最初にフラッシュバックしたのは、勇者が涙と鼻水でグショグショになった顔でオレを刺し殺す瞬間だった。男前が台無しだったぞ。
 そしてグレイクニルのはじめてを奪った記憶も、ちゃんと残っていた。

「シド、感激するのはいいが、服を寄越せ」
「は、はいっ! 先ほどは青の衣装だったので、次は赤がいいかと思うのですが」
「何でもいい」
「っ……その衣装に無頓着なところも……ち、父上……」
「泣くな。泣き虫は卒業したんじゃなかったのか?」

 埒が明かないので、シドが持っていた衣装をぶんどる。

「グレイクニルは先に案内した部屋だな?」
「はい。もてなすようには言ってあるのですが……」
「オレが行く。お前はロロが戻ったときの言い訳でも考えていろ」

 ロロの機嫌を取るピンクスライムはもう使えないんだからな。そう言うと、父上だけで十分ですと返された。それもそうか。
 部屋を出ようとして、壁にかけられていた鏡に目が行く。
 生前と変わらない自分の見た目には驚いた。これで実は死体だっていうんだからな……。
 しかし全てが生前通りというわけでもない。体に満ちていた魔力は当然のようになくなっているし、瞳の色も紫からピンク色に変わっている。
 あくまで今の自分はピンクスライムなんだと実感させられた。

 ドアから廊下に出ると、真っ直ぐレイがいる部屋へと向かう。
 シドの屋敷には何度も訪れたことがあったので、構造は把握していた。
 死後の手入れがよかったおかげか、違和感なく死体の体も動く。
 死んではいるものの、ピンクスライムが浸透したおかげか血色もよくなっているようにも見えた。
 レイの部屋まで来ると、ケンタウロスの執事がドアの前に立っている。その横には元から待機していたらしいメイドが壁沿いに立っていた。オレが動いたと聞いて、先回りしたか。

「スズイロ様を再見出来、言葉もございません……。グレイクニル様はこちらにご在中ですが、グレイクニル様のご要望により、アッサム様は右の隣室に移動されております」
「分かった、お前は下がっていい」
「はっ」

 廊下には絨毯が敷かれているので蹄の音は聞こえないが、執事がこちらに馬のまるまるとした大きな尻を向けて遠ざかるのを気配で感じる。フサフサの尻尾が光沢のある尻の前で揺れている光景が脳裏に過ぎった。
 落ち着け、執事を襲うのは後でもいいだろ。それよりも優先すべきことがある。
 ドアを開けると、レイは椅子に座り、祈るように机に肘をついていた。

「レイ、待たせたな」

 勝手にそんな言葉が口を突いて出る。
 虚ろな目でオレを見たレイは、一瞬で顔を強張らせた。

「スズイロ、卿……? いやでも、さっきは…………遂に幻を見はじめたか?」

 信じられないといった様子で、レイが立ち上がる。
 こちらに向かって来る歩調はフラフラと頼りなかった。

「まぁスズイロでも間違いではないが……。残念ながら、オレはピンクスライムだ」
「ピンクスライム……?」

 一歩先まで近づいたレイは、何を言っているんだという顔をする。
 そういう反応になるのも無理はない。シドがすぐにオレを理解出来たのは、オレの軽口に慣れていたからだ。

「どこから説明したらいいか…………結論から言うと、オレはピンクスライムに転生した。死体を動かせてはいるが、この通り……本体がピンクスライムであることは変わらない」

 シャツの裾をたくし上げ、脇腹の傷口を晒した。
 意識すればそこからにょっとゼリー状の体を伸ばして見せることが出来る。
 レイはまじまじと傷口から伸びるピンクスライムの体を眺めていたが、夢を見ているようなぼんやりとした雰囲気は拭えなかった。
 ピンクスライムが人格を持ってるだけでもおかしな話なのに、それが生存確認を望んでいたスズイロ本人ともなれば、到底信じられることではないだろう。

「魔族だったスズイロは死に、魔物に生まれ変わったってことだ。こうして前世の体を動かせているのは、一重にシドが綺麗に保存していてくれたからに他ならない。――ところで、レイ」

 名前を呼ぶとレイが顔を上げる。
 驚きのあまり、どこか頼りなくなっている表情は、いつかの少年の姿を思い出させた。
 笑みが漏れるのを自覚しながら、レイに問いかける。

「お前、死ぬ気だろ?」
「っ……」

 目に見えてレイは瞳を泳がせた。
 オレはシドが虫も殺せないことを知っている。だからこそシドの元にさえ行けば、命の危険がないことは分かっていた。
 しかしレイは違う。
 だというのに彼は、停戦協定についての会談はなされないと分かっていたにもかかわらず、ここまでやって来たのだ。
 アッサムのことは辿り着くまでに帰すつもりだったのかもしれないが、何にせよレイは、ここで死ぬつもりだ。
 感情の揺らぎが見て取れなかったのは、最期の覚悟をしていたからかもしれない。
 自分を落ち着かせるためか、レイは胸に手を置くと目を閉じ、深呼吸をした。
 ゆっくりとまた目は開かれるが視線は伏せられている。

「貴方に殺されるなら、思い残すことはない」
「どうしてそう死にたがる?」

 カストラーナ王は、生活の援助こそしなかったものの、魔物のいない危険の少ない森へレイを送った。
 世俗とは断絶された環境だったが、平穏な隠居生活を送るには最適だっただろう。
 元々望みのない交渉を断ったところで、兄王が彼を害するとも思えない。
 あのまま静かに暮らせたはずなのに、レイは死地へ赴くことを選んだ。
 どうしてだ? と尋ねるオレに、レイははじめて声を荒げた。

「私はっ! もう、一人で生き恥を晒すことに、耐えられないんだ!」

 虚を突かれて驚いている間にも、レイは言い募る。

「本当なら、あのとき……森で目覚め、停戦協定が反故になったと知ったときに、私は死にたかった! けれど貴方が、スズイロ卿が生きているなら、また機会は得られるのではないかと……っ。でも……でも貴方は死んでしまった! 魔王と共に!!! ならば私に生きる意味などあるのかっ!?」

 勇者が反旗を翻したと聞き、それが王国の終わりになるならその結末だけは見届けようと無為な生活を続けていたに過ぎない。どちらにせよ、遠からず森でも最期を遂げるつもりだったと――。
 レイの根底にある感情の発露は、慟哭だった。
 次第にレイの声が涙混じりになる。

「私はっ、ただ、和平を……魔族との和平を望んだだけだったというのに! 全てを壊された挙げ句、貴方まで……!!! 私は兄が憎い……貴方を殺した勇者が憎いっ!!! 彼らが作る世界に、微塵も興味などあるものか! だから私は、死に場所を求め、ここに来た。……例え死体であっても、最期に……っ……せめて、貴方に会えるなら…………貴方は、私のことなど、覚えてはいないだろうが」

 終始和やかな表情を見せていた森でのレイの姿は、今やどこにも見受けられない。
 ずっとレイは、人知れずこれだけの感情を胸に秘めていたのか。
 わなわなと震えるレイの肩に手を置く。

「覚えてるさ、レイをはじめて襲ったときのことは」
「え……」

 ピンクスライムの体だけだったときには抜け落ちていたが、前世の体を動かせるようになった今では、鮮明に思い出せる。
 まさか……と呟くレイは見開いた目から涙を一筋こぼした。そんな彼の背中を優しく押し、椅子に座るよう促す。オレも手近な椅子を引き寄せて座った。

「実はあのとき、オレも人間の領土に行ったのは、はじめてだったんだ」

 レイが自分の意志で、敷地から一歩足を踏み出すという冒険をした日。
 オレも似たような感覚を味わっていたところだった。

「ピンクスライムのオレを見ていれば分かると思うが、オレは性欲に弱くてな。あの日は、魔族だけを相手にするのに、物足りなさを感じていた。そこで気づいたんだ、世界には魔族以外にも人間がいるじゃないかってな」

 善は急げと、人間の領土に侵入し、はじめて遭遇した人間がレイだった。
 林を抜けた先には草原が広がり、自然に囲まれた景色は、魔族領とそう大して変わるものではなかったが……一点だけ違うことに、すぐに気づかされた。
 草原の先で目を輝かせ、太陽の光に祝福を受けている少年を見つけたのだ。

「一目で心を奪われた。後は、まぁ、知っての通りだな」

 はじめて触れる人間の肌の薄さ、筋力の頼りなさに、殊更優しく接することしか出来なかった。けれどそれが逆に新鮮で、人間も素晴らしい存在だということを知るきっかけになった。
 懐かしさに目を細めるオレに対し、レイは何か言いたそうに顔を上げる。
 その顔は少し不満そうだった。

「でも、次の日には解放したじゃないか」
「だってお前、あのままヤリ続けてたら死んでたぞ?」

 ピンクスライムが精気を奪い取ることで相手の命を奪えるように、ヤリ過ぎは魔族にとっても人間にとっても毒だった。特にまだ体が出来上がっていない者にとっては。
 しかしレイはオレの言い分に納得出来ないらしい。

「だったら……傍に、置いておくだけでも……」
「なんだ、傍にいたかったのか?」

 あまりにもぐったりした姿を見せられて、このままでは殺してしまうと慌てて回復薬を飲ませて寝かしつけた。
 一緒にいれば、オレのことだからまた手を出してしまうだろうと、後ろ髪を引かれる思いで離れたんだが。

「あぁ、そうか、レイはオレのことが好きなんだったな」

 レイの家で聞かされた話を思い出す。
 ここでようやくピンクスライムがオレであることに実感が湧いたのか、レイは一瞬にして顔を赤く染め上げた。
 ヒゲが綺麗に剃られているおかげで、表情の変化がよく分かる。
 身分のある、いい年したおっさんが照れる姿は…………うん、可愛いな。

「わ、わ、悪いかっ!? 自分でもどうかしてるとは思うが、仕方ないだろう! 理性でどうにかなる感情ではなっ……んっ」

 腕を背中に回し、レイの唇を奪う。
 柔らかい唇を食むと、ぁ……とレイが小さく声を漏らした。空色の瞳が熱を持ちはじめたのを見て、彼を持ち上げ、机に押し倒す。

「す、スズイロ卿……」
「なんだ」
「その……私は、貴方のように、美しさを保ってはいないし……もう、おじさんだ」
「だから?」
「か、構わないのか? こんな年嵩のいった、私でも……」

 頬が緩むのを感じ、そのままもう一度レイに口づける。

「何回言えばいい? オレは、ピンクスライムだ。今のレイの体なんてとっくに知ってる。レイが自分で見たことのない場所もな?」

 何せ全方位に視点を持てるピンクスライムは、伸ばした体の先をも見ることが出来るのだ。真っ赤に蠢く直腸の内壁を、レイはきっと知らないだろう。

「あ……ぇ……だったら、今までのことも……」
「森でレイが自分の指を挿入したことも知ってるし、ヘビにイカされたことも知ってる。宿屋で味わったオレの張り型はよかったか?」

 くくっと笑いながら尋ねると、レイはなんとも情けない顔になった。

「おっさんでも構わない。オレは今のレイを抱きたいんだ」