009

 魔族領とはいっても、人間側の領地と明確な境界線や砦で隔てられているわけじゃない。大陸の北側に魔族領、南側に人間領があり、地図上では分かりやすく分断されているが、その実、街道を避ければ互いの領地を行き来する抜け道はいくらでもあった。

 魔族対人間の戦争が激化していたときならいざ知らず、魔王が倒れた後ともなれば双方共に見張りの兵も少なくなっている。
 シドの領地だけは戦線を維持するために兵も多いようだが、それもカストラーナ王国と面する地域に限られた。
 カストラーナ王国側の激戦地区さえ迂回すれば、魔族に出会うこともなく魔族領へ入ることは可能だ。
 あえて道のない森の中を進み、シドの魔族領へと足を踏み入れる。
 しかし侵入は早々にバレていたようだった。

「カストラーナ王国のグレイクニル様とアッサム様ですね。お待ちしておりました。主人の元までご案内させて頂きます」

 木々の間から前触れもなくケンタウロスが現れる。馬の下半身と人の上半身を持つ男は、燕尾服に身を包んでいた。
 老年の白髪頭をオールバックにし、薄い眼鏡をかけている装いに記憶が刺激される。……確かシドの屋敷で執事をやってるヤツか。何度か襲った覚えがあるので間違いないだろう。
 しかし一体いつから監視されてたんだ?
 前世なら瞬時に察知出来ただろうに、やはりピンクスライムの体では色々と能力が劣るらしい。
 ケンタウルスの出現に、アッサムはすぐさま刀剣に手をかけたが、レイは動じることなく静かに頷いた。

「よろしく頼む」
「レイ様!?」

 わざわざ迎えに来てくれたんだから、案内してもらえばいいだろうに。
 アッサムは魔族の言葉に素直に応じることへ抵抗があるようだった。

「私たちは停戦について話をしに来たことを忘れるな。……そうだ、彼はこのまま帰してやっても構わないか? 必要なのは私だけだろう」
「なっ……!? 自分は、レイ様を置いて帰国など致しません!」

 レイの言い分に目を丸くしたのはアッサムの方で、大きく口を開けて意義を唱える。
 そしてケンタウルスである老年の執事も、首を横に振った。

「グレイクニル様に対し、我々が無礼を働かなかったことを証明して頂くためにも、アッサム様には同行して頂く必要がございます」
「そうか……」

 返答を聞いたレイは心底無念そうだ。ここまで落ち込んだ表情を見るのは、はじめてかもしれない。
 ……あぁ、そうか。レイもシドが停戦について話し合うことはないと分かっているんだな。カストラーナ王国の使いであるアッサムに、もう用はないことも。
 どうやら本当にレイは、オレの生存確認のためだけにここまでやって来たらしい。

 執事を寄越したことを考えると、シドも迎え入れる気はあるのか。
 そんな約束をした覚えはないと突っ返すことも出来ただろうに。人間側への人質にするにしても、捕まえてそのまま投獄する手もあったはずだ。
 どういう腹積もりなのか……読めそうで読めないところがある長男に、オレは体を捻るしかなかった。

 移動には転移陣が用いられたので、あっという間に、そびえ立つシドの屋敷を目の当たりにする。
 転移陣は予め設定した場所へ瞬間的に移動出来る便利な魔方陣だ。悪用されては困るので、転移陣がある場所には常に見張りが置かれていた。長距離移動には便利なんだが、敵も使えるのが難点なんだよな。有事の際には消すのが決まりになっているが。

 オレにとっては見覚えのある屋敷も、はじめて見るレイとアッサムは驚いたような表情で洋館仕立ての建物を見上げていた。
 びっくりしただろう。人間の街でもよく見かける建築様式に。
 魔王城はそこそこ奇抜な外観だったと思うが、建物の好みは住まう主人によって変わる。
 戦線が置かれている領土の領主が住まう場所が、堅牢な城でも要塞でもないところが、オレからすればシドらしいんだが、そこもレイたちにとっては目を見張る点だったようだ。
 シドの執事は、二人の様子が落ち着くのを待ってから声をかけた。

「まずはお部屋の方にご案内させて頂きますので、旅の疲れをお癒やしください。夕食後に主人との会談の席を設けさせて頂きますため、出来ればそれまでに身なりを整えて頂けると幸いです」
「ぜひ、そうさせてもらうよ」

 赤褐色のレンガが積まれた壁のある玄関を通り、絨毯が敷かれた廊下を歩く。
 左右対称になるよう設計されているシドの屋敷は、鳥が両翼を広げるような形で部屋が並んでいた。当主の部屋は二階にあるが、オレたちは一階にある客室に案内される。

「時間になりましたら、またお迎えに上がります」

 執事が両開きのドアを閉めたところで、アッサムが大きく息を吐く。

「はー……何というか……てっきり話に聞いていた、魔王城のようなところへ連れて行かれるのだと思ってました」
「そうだな。私もまさか人間の貴族が住まうような洋館に連れて来られるとは思ってもみなかったよ」

 口々に感想を漏らしながら、二人はグルリと室内を見回す。
 案内された部屋は広く、調度品も一級品が備えられていた。
 アッサムが安全確認も含めて、タンスやらを開けていく。

「魔族も、自分たちと同じような家具を使うんですね」
「ヴァンパイア族は私たちと背格好が変わらないからな。案外使いやすいのかもしれん」

 室内のドアを開けた先に、洗面所と風呂場があることを発見したレイはそちらに向かった。執事に言われた通り、身なりを整えるようだ。荷物の中から正装用の服を取り出す。

「……夕食後って言ってましたけど、食事の内容は大丈夫なんですか」
「それに関しては、大丈夫なことを願うしかないな」

 いくらシドでも赤ワイン代わりに、血を出したりしないから安心して欲しい。
 魔族の間では、もてなす相手種族の嗜好を調べて食事を用意するのが普通だ。なので色んな種族が一度に会する場面では、食事係が大層苦労する。
 今回にあたっては、ちゃんと人間用の食事が用意されているだろう。
 ……ピンクスライム用の食事も期待していいのか、気になるところだな。


◆◆◆◆◆◆


 オレの期待は見事に打ち砕かれた。
 夕食が並べられたテーブルの上に、活きのいい男がいなかったことに落胆する。
 見慣れたおいしそうな食事を前にして、アッサムは目を輝かせてたけどな。
 ちゃっかりヘビもレイから肉を分けてもらっていた。

 おい、シド! お父さんの食事がないってどういうことだ!? 勝手にまた執事でも襲っておけってことなのか!? ……それはそれで、やぶさかではないが。

 オレの思考を察知したのか、視界の隅でケンタウロスの執事が一瞬肩を震わせるのが見える。
 仕事に忠実な人の背中を見てるとムラムラしてくるのってオレだけかな。

 レイとアッサムが満足げに夕食を終わらせた後、少し休憩時間を挟んで、シドとの対面と相成った。
 久しぶりに見る息子の顔は、触れたら指先から凍ってしまうんじゃないかと思えるほど冷たい印象を受けるが、ヴァンパイアである彼は終始こんな感じだ。
 オレに倣って伸ばされている白一色の長髪も、靡く度に冷気を放っているように見える。切れ長の目や細く通った鼻筋はオレ似だと言われているが、表情がないとここまで冷酷に映るんだな。
 シドはオレも含めて客人たちを一瞥すると、静かにレイと机を挟んで対面する席へ腰を下ろした。
 次いで凜とした声音が室内に響く。

「ワタシがスズイロの息子、シドだ。そちらはグレイクニルとアッサムで間違いないかな。魔族は苗字を持たぬ故、同等に名前で呼ぶことをお許し頂こう」

 シドの言葉に、レイは問題ないと頷く。
 しかしシドは長話をする気は毛頭ないようだった。

「単刀直入に言うが、人間との停戦はあり得ぬ。こうしてグレイクニルの生存が確認されたことでも、人間側が停戦協定を反故にしたことは明白だ」

 魔族側が動いたならグレイクニルが生きているはずがないからな、とシドは二人を冷ややかに見下す。

「それは……っ」
「黙れ。人間の戯れ言など聞きたくはない」

 咄嗟にアッサムが口を開くが、シドに睨まれ、言葉を続けることは出来なかった。
 そんな中でもレイは落ち着いた様子を保っている。
 シドと対面するにあたり、レイはヒゲを剃り、伸ばし放題だったグレーの髪をオールバックにして後ろでまとめていた。
 精悍な顔つきを惜しげもなく晒した容姿は気品を伴い、透き通った空色の瞳は、レイの気高さを感じさせる。
 カストラーナ王国の国章が金縁で施された漆黒のマントを背負っている姿は、誰が見ても彼を王家の人間だと分からせるだろう。

「では何故我々を招いたのだ?」

 レイが当然の質問を投げかけると、シドは唇の端を歪ませ薄く笑った。

「はるばる来てもらったからには、礼儀を尽くさねばならぬだろう? アナタ方にこそ見て頂かねばなるまい。魔族の神秘を、『魔』が生み出した、究極の美を!」

 軽くシドが右手を上げたのに合わせて、室内に二つあるドアの内、彼が入室した方のドアが開く。
 そこからゆっくりと姿を現したのは――。

「まさか……生き……」

 前世の、オレだった。
 死体修復後も手入れをされているのか、腰まで伸びた銀髪は歩調に合わせてサラサラと揺れている。着ている服も見覚えがなく、生前より華美になっている気がしないでもない。
 しかしその目からは、当然の如く生気が全く感じられなかった。
 レイも思わず浮かしかけた腰を下ろす。心なしか両肩も下がっているように見えた。続く落胆の声音からも、気持ちが沈んでいるのが窺える。

「そんなはずはないか……」

 けれどシドは気落ちしているレイのことなど気にせず、姿を現した生前のオレの姿を惚れ惚れと見上げ、得意げに語った。

「どうだ、素晴らしいだろう? 死して尚、これだけの美しさを誇るのは、世界中を探しても父上以外に存在しない!」

 お前は本当、根っからのファザコンだな……! 聞いてるオレの方が恥ずかしいだろ!?
 こらっ、アッサムも見蕩れてるんじゃない! これ死体だからな!?

「…………さて、用が済んだからには、お引き取り願いたいところだが、そういうわけにもいかぬ」

 え? シドくん、もしかしてお父さんを見せて自慢するためだけに、二人を招いたの?
 一人落ち込んでいたレイは、そこでようやく顔を上げた。

「私たちをどうするつもりだ」
「安心しろ、すぐには殺さぬ。……連れて行け」

 人間側への人質にするのか、シドの命令を聞いたケンタウロスの執事が、レイとアッサムに立つよう促す。それとは別にメイドがやって来て、オレの前に大きなトレイを置いた。

「そうだ、礼を言い忘れていた。土産は有り難く受け取らせてもらおう」

 特にオレの存在に対して触れられないと思ったら、手土産だと思われてたのか。
 いや、それは……とレイが口を開くが、オレは横にゼリー状の体を振って、自ら置かれたトレイの上へ移動した。
 ちょっとシドと話し合わないといけないことがあるからな。問題はどうやって話すかだけど。
 オレの動きを見て察したのか、レイもそれ以上は言葉を発しなかった。何故だかアッサムは涙ぐんでいる。

「聞き分けのいいピンクスライムだな? ヘビが上に乗ってる意味は分からんが……キミはワタシが運ぼう」

 言葉通りに、トレイの上に乗ったオレをシドが持ち上げる。
 そろそろ大型犬ほどの大きさになってるオレを持てるとは、細い割にシドにも力がついていたんだな。
 レイに向かって堂々と言葉を発していた姿もそうだが、息子の成長ぶりに感心する。あの泣き虫だった子がよくぞここまで……。
 部屋から廊下に出て、レイたちの姿が見えなくなるとシドはほっと息を吐いた。

「はぁ……まさかグレイクニルが生きているとは。こんなことならグレイクニルとならば会談するなどと言わなければよかった……。とりあえず捕らえたのはいいものの、ロロは怒るだろうな……。このピンクスライムで機嫌を治してくれたらいいんだが……」

 おい、先ほどまでの威厳はどこへやった。
 ロロはシドの幼馴染みで、副官を務めている狼男だ。虫も殺せないシドに代わり、戦線で指揮を執るのが彼の役目なので、きっと今も前線に出ているのだろう。
 お前は未だに幼馴染みに頭が上がらないのか。子供の頃から大人しい性格のシドと、気性の荒いところがあるロロの組み合わせでは仕方がないのかもしれないが。

 シドは別室に移動すると、テーブルの上にオレを置く。
 その部屋には死体のオレもいた。
 物言わぬ死体のオレは、部屋の中央付近で佇んでいる。周囲には様々な衣装やアクセサリーが飾られてあった。そこにだけあるのを見るに、衣装部屋から必要な分だけを持って来ているのだろう。

「謁見が終わったから、次は散歩用の衣装に着替えさせるんだ。キミの目から見ても父上は素晴らしく映るかな?」

 そしてシドはオレに向かって語りはじめる。
 どうやら今からシドの手によって着せ替えが行われるらしい。だからオレの死体で遊ぶなって。

「父上は見た目だけじゃなくて、内面も誠実な方なんだ。だからこそ装飾品は全て一級品を揃えている……例えどんなに綺麗な装飾も、父上の前では霞んでしまうとしても。あぁ、ほら見たまえ、宝石の方が存在を恥じているようではないか」

 心が誠実なヤツは、他人を犯したりしない。
 あとピンクスライムにまで父親の自慢をするの止めて。居たたまれないから。
 しかしオレの気持ちをよそに、シドの口は止まらなかった。

「母上は死霊使いとしての技量は他の追随を許さなかったが、外見はとても地味で、内向的な性格も手伝い常に劣等感を抱いていた。そんな母に光を当てたのが父上だ。常に社交界の中心にいた父に誘われた母は、今でも夢のようだったと話す」

 お前の性格は母親譲りで間違いないようだな。
 朗々と語りながらも、シドは手を止めず丁寧に死体のオレが着けているアクセサリーを外していく。

「父上は相手を外見で選ばない。父上に並ぶ容姿を持つ者がいないというのもあるが。睫の一本一本でさえ、未だ息吹いているようだ」

 だからちょいちょい見た目自慢を入れるの止めろ。
 身内の贔屓目って怖い。それこそ外見の優劣なんて、好みで変わるだろうに。

「ワタシに対してもいつも父上は優しかった。ワタシが虫も殺せないと知っても、父上は失望するわけでも怒るわけでもなく、ならば出来ることを探せと存在を認めてくださった。あのとき、どれほど救われたことか。だからワタシは死霊使いとしてだけではなく、ありとあらゆる魔法を会得することに邁進した」

 そうそう。だけど攻撃魔法は怖くて使えないと言ってロロに殴られるんだよな。