003─自宅療養編─
「兄様、おかえりなさい」「!!! ……ただいまシリル! ただいま!!」
玄関で出迎えた僕を、兄様が車椅子ごと抱きしめる。
以前父様にも同様に抱きしめられたけど、力の加減がなかったので速攻で母様から手刀をもらっていた。
そのへん兄様はちゃんと加減してくれるので苦しく感じることはない。
「手紙で経過は知ってたが、本当に大丈夫なのか?」
「はい、まだ自力で歩くのは難しいですけど」
ベロム先生が予想した通り、僕は体外でマナを溜めることに成功した。そしてそれに合わせて魔法も発動できるようになり、目に見えて体調が良くなっていた。
初級魔法をはじめて使ったときの屋敷のお祭り騒ぎに関しては口を閉じよう。母様は発狂などしていない。
おかげ様でベッドからも出られるようになり、発声の練習を始めた今じゃ意思の疎通に悩むこともなくなった。
ただ体力がないことに変わりはないから、まだ家からは出られてないけど。
「良かった……良かったな……」
「うん」
涙声になりながら頭を撫でてくれる兄様の背中をさする。
父様の後を追うように順調に成長している兄様の体は、もう成人に近くなっていた。
長期休暇の度に帰省はしてくれてたけど、すごく久しぶりのように思う。
しばらく兄様との感動の再会に浸っていると、すっと近づく存在があった。
「ジュール様、よもや帰宅後、手を洗わずにシリル様に触れられてはおりませんね?」
「げっ、ウォルト」
「ましてやうがいもされてない……なんてことはございませんね?」
「イッテキマス!」
執事のじい様の登場に、疾風の如く兄様は洗面所に向かう。
なくなった体温が少し寂しい。
「シリル様もお気をつけください。ニコル、お前がついていながらどういうことです」
「……すみません」
「えっと……ごめんなさい」
ニコルはきっと兄様の勢いに押されてタイミングを逃しただけだと思うんだ。父様のときもそうだったし!
そう擁護したかったんだけど、じい様の気迫に負けて僕も謝ることしかできなかった。
「シリル様が謝られることはございません! 全て自分の不徳の致すところです!」
「そうだ全部ニコルが悪い!」
「ジュール様は一番反省なさってください」
「うっ……」
いつの間にか戻ってきた兄様が調子に乗るも、じい様の前にあえなく撃沈。
そんなことをいったら注意されるのは分かると思うんだけど……わざとかな?
緩んだ空気に苦笑が漏れる。
「本日は奥様も慌ただしくされておりますから、あまりご面倒をおかけしないように」
「はーい」
「返事は短く」
「はいっ!」
こんな風に兄様は、じい様からお小言をもらうことが多かった。
兄様が帰ってくると一気に屋敷が賑やかになるなぁ。
一通り注意を終えて気がすんだのか、じい様は仕事に戻っていく。
「そうだ兄様、いい忘れてました。進学おめでとうございます」
「ありがとう! まぁオレくらいになれば余裕だけどな!」
ふふん、と鼻高々に自信を覗かせる兄様は歳相応に見えて微笑ましい。
今日は我が家で兄様の高等学術研究所への進学祝いを行う夕食会がある。
その準備があるので、いつもなら一緒に出迎える母様も姿を見せていなかった。ここ数日はずっと忙しそうだ。
「いつまでもここにいたら手伝わされそうだし、オレの部屋に行くか!」
返事をする前に、ひょいっと持ち上げられる。
いわゆるお姫様抱っこの形で。
「ちょっ!?」
「まだまだ軽いなー。しっかり食わないとダメだぞ?」
重さなんてまるでないかのように、兄様はサクサクと部屋に向かって歩き出す。
僕は驚いた拍子にしがみついた状態のまま固まっていた。
「兄様いきなり過ぎます!」
「でも階段上るのに車椅子じゃ無理だろ?」
「そうですけど、せめて一言いってからにしてください!」
「オレの部屋に行くっていったじゃん?」
いいましたけども! 了承してないから!
そんな僕たちの様子に溜息をつきながら、ニコルは車椅子を持って後をついてくる。
「シリルがくるのは、はじめてだよな! 二階の他の部屋はもう行ったのか?」
「……父様が案内してくれました」
兄様と全く同じ流れで。
そして二階に家族の絵が飾られた一室があり、僕の中でそこは開かずの間になりました。
画家よ、想像力がたくましいにもほどがあるぞ。
「肖像の間は」
「行きました、見ました、もうお腹いっぱいです」
「驚いただろ?」
「はい……」
まず一番に絵の多さに驚いた。結構な金額がかかっていることは想像に難くない。
壁一面に絵が掛けられている光景はちょっとしたホラーだった。
その中でも僕の絵が一番多かったわけだけど……もう何もいうまい。
「家の自慢だからな!」
「えぇー……」
「恥ずかしがることはないんだぞ?」
そこは恥ずかしく思ってください。父様も母様も。
余命短い僕の姿を残そうって思ってくれてのことだろうから、強くはいえないけどさ……。
「ほい、とうちゃーく!」
階段を上りきった後も部屋につくまで抱きかかえられた僕は、そのままソファに腰を下ろす兄様の膝に横抱きのまま座らされた。
「兄様……?」
「ん?」
「重いでしょう?」
「そんなことないぞ?」
「……足が痺れますよ」
「大丈夫、大丈夫」
ダメだ、暖簾に腕押しだ。
兄様はニコニコしながら僕の頭を撫でている。
結局、未だ兄様の弟離れはできていない。
魔法が使えるようになったおかげで、夢見病で命を落とす心配がなくなったのは良かった。
でもまだ安心はできないから、早く兄様には弟離れして欲しいんだけど。
もう膝に座らせられるような年でもないっていうのに……いっても無駄なんだろうなぁ。
たまに家族の中で僕の年齢は三才で止まってるんじゃないかと思うときがある。
じゃないと扱いに納得ができない。
何をいったところで、シリルは可愛いなぁで終わらせられる屈辱といったら。
「しかし手紙に書いてたけど、本当に髪切るのか?」
名残惜しそうに今は結わずに下ろしている僕の髪の一房を兄様が手に持つ。
切られたことのない髪は太ももの辺りまで伸びていた。
兄様の問いに僕は強い決意をのせて頷く。
「切ります」
「どうしても?」
「切ります」
「……またなんで」
髪にはマナが溜まるとされている。
だから魔法師は総じてベロム先生のように髪を伸ばしている者が多い。あくまで通説なんだけどね。
僕が見ても、まぁそうなのかなー? という程度だ。
夢見病には大して関係はなさそうだけど、髪に溜まるなら、一旦溜まった分を切り離した方が良いんじゃないかと考えたのが、切ろうと思ったきっかけ。
一番の理由は──。
「……女の子にしか見えないんです」
「うん?」
「ベッドから出られるようになって、鏡を見るようになったんですけど、どこからどう見ても女の子にしか見えなかったんです」
そろそろ自分自身の姿も受け入れられるようになっただろうと覚悟ができた日、手鏡をメイドさんから借りた。
体のラインから以前の骨骨しさがなくなり、少しは見れるようになったと思ったんだ。
意を決して見た鏡に映っていたのは……白い長髪を流した、華奢な女の子だった。
誰だ、これは。
本気でそう思い、ありとあらゆる角度から鏡を見直した。
映っていたのは僕だった。
僕しかいなかった。
母様似だとは聞かされていたけど、母様より線が細く見えるのは病気のせいか!?
それに関してはこれから筋肉をつけていくしかないと自分を慰めた。
後は髪を切るしかないと。
「……髪の短い女の子もいるぞ?」
「気持ちの問題です」
前世の記憶も男は短髪だっていってるし。
マナが溜まる云々もあるから一石二鳥だと思う。
「勿体無いと思うけどなぁ。どのくらい切るつもりなんだ?」
「それはもうバッサリと切りますよ?」
「……どのくらい?」
「ニコルぐらいです」
あれぐらいがさっぱりしてちょうど良いだろうと、ニコルを指し示す。
瞬間、兄様の顔つきが変わった。
「待て、ニコルに合わせる必要はないだろう」
「別に合わせたわけじゃないですよ? 兄様だって短いじゃないですか」
運動しやすいからか、兄様は騎士らしい短髪だ。ベリーショートっていうんだっけ?
「オレは魔法騎士を目指してるから良いんだ! 長髪なんて騎士の中じゃ少数派だからな。だけどシリルは違うだろう? 邪魔なら結ったら良い話だし、何もそこまで切らなくても良いじゃないか!」
「んーでもマナのことも気になりますし……切ってしまうとウォルトとお揃いじゃなくなってしまいますけど」
「気にするところはそこなのか!?」
「その分ニコルとお揃いになりますし?」
「カディル家に合わせる必要はないだろ!?」
「もう決めたことです。切った髪は母様が記念にとっておくともいってますから良いじゃないですか」
母様たちを説得するのも大変で、記念に切った髪を残すことで折り合いがついた。
なのでもう兄様にはゆずらない。
「似合ってるのに……」
「髪の短い僕は嫌ですか?」
「そうじゃないけど……勿体無い……」
「また伸びますよ」
伸ばすかは分からないけど。
愛想のない僕の返答に兄様は両手で顔を覆っている。
それほどのこと?
女の子なら髪は大切かもしれないけど、僕は男だ。
「うぅ、オレの可愛いシリルが」
「可愛くなくて良いです」
男なら格好良くなりたい。父様や兄様は男らしいのに、何で僕だけ!
拗ねてつい唇がつき出てしまう。
「そういうところが可愛いの、分かってないだろ」
「…………」
笑いながら兄様が軽く唇を合わせてくる。
……スキンシップの範囲内だよね?
自意識過剰なのかとニコルを見れば、ニコルは笑顔のまま、頬を引き攣らせていた。
やっぱ普通じゃないじゃん!
その間も兄様はちゅっちゅっと僕の髪や顔にキスの雨を降らせている。
それを手で制して。
「兄様、僕はもう小さい子供じゃないんですから、あんまりこういうのは」
「シリルはキスされるの嫌いか?」
好き嫌いの問題なの?
それに何か行動が慣れてる気がする……。
「……兄様、さては遊び人ですね」
「あそ……!? 待てシリル、確かにつまみ食いはしたりしなかったりしたかもしれないけど、オレは断じて遊び人じゃないぞ!」
つまみ食いとかいってる時点で決定なんですが。
自然と目が据わる。
「僕はまだ親愛からくるものだと分かりますけど、普通の人は勘違いしてしまいますよ」
「倫理観を疑いますね」
「あ゛!?」
さり気ないニコルの援護射撃に兄様がガンを飛ばす。
しかしニコルも負けていない、けど。
「シリル様の情操教育によろしくありません」
ニコルにはいわれたくないと思う。
「別に愛情表現は悪くないだろ!」
「兄様の場合、不特定多数の方にもされていることが問題なんですよ」
「違うから! シリルは別格だから!!!」
「他の方には浅い思いしかないと? やっぱり遊びなんじゃないですか」
「ぅ……」
母様が昼食に呼びに来るまで、僕はチクチクと兄様をイジメて遊んだ。
別に見るからにモテそうな兄様に僻んだわけじゃないからね!
◆◆◆◆◆◆
僕が暮らすロンアラス国は魔法の素質を持つ者が多く、国策で魔法師の教育に力を入れていることからも、『魔法師の国』と呼ばれている。
周囲を山々に囲まれた盆地に栄え、四季もあるこの国は概ね平和だ。
その立地から大きな戦争も起こらず、あったとしても大半は小規模な魔物の群れとの衝突だった。
国に育てられた魔法師は魔物の討伐や災害地域に派遣され、同盟国の要請があれば他国にも赴く。
正にロンアラスは、人が資産だといえる国だ。
国、ひいては魔法庁の管轄で中等学術研究所と高等学術研究所は運営されている。
どちらも魔法を学問として学ぶ場所で、中等部を卒業した人間は高等部に進学するのが決まった流れになっていた。
入学や進学は基本的に魔法力と筆記試験にて合否がつけられ、年齢や身分は関係ない。
基本的にというのは、高等部を卒業することは貴族の通過儀礼になっていて、裏口入学がないともいえないからなんだそうな。これは母様が誰かと話しているのを聞いて知った。
うちにはそんなお金を用意する余裕はないので、兄様の進学は自分自身の力によるものだ。
魔法に必要なマナの量は基本的に遺伝するといわれている。
ただ両親のマナの量が多くても少ない子供は生まれるし、その逆も然り。僕は両親と比べると多い方だろう。
王族を筆頭とした貴族にマナを多く持つ者が目立つのは、この国の闇かもしれない。
突然変異か、隔世遺伝かは分からないけど、庶民でも稀に膨大なマナを持つ者が現れる。
そして陽の目に当たった庶民は貴族の養子に招かれるので、結果的に貴族と庶民の間では、マナの内包量の格差は広がる一方だ。
今後、この格差をどうしていくのかがこの国の課題だろうか。
体調が良くなり起きていられる時間が長くなった僕は、座学に勤しむことにした。前世の記憶と照らし合わせながらこの世界を学ぶのは中々に面白い。
そして僕は夢見病の治療法を確立することで、国に貢献したいと考えるようにもなっていた。
なんでも近年、夢見病患者が増えているんだとか。
それも貴族を中心に。
そんな中で回復を見せた僕は明るい知らせだといえる。けれど実際そうでないことは僕もベロム先生も理解していた。
僕の回復方法が他の患者にも転用できたら良かったんだけどな。
「あっ、あっ……ふ……シリル様、そこは……!」
「ここ?」
「あぁ! ダメ、ですっ、そんな動かさないで……やぁっ」
服の更にその上で、直接ニコルには触れないようにして、僕はニコルの胸をさするように手を動かす。
僕が手を動かす度に、ベッドに膝立ちになったニコルは喘ぎ声を漏らした。
「くっぅ……んっ」
「ニコルは敏感だよね」
「ちがっ……あっ、あっ……」
懸命に首を振って快感から逃れようとする姿に説得力はない。
邪魔をされても困るので、ニコルには手を動かさないようにいってあった。
いいつけを守ってニコルはシャツの裾を握りしめながら、顔を真っ赤にしている。
ブラウンの肌が汗ばみ、熱に染まる様子は扇情的だ。
「んんっ! ……はっ、ぁ……あっ、あっ!」
「ふふ、ヨダレが垂れてるよ」
そんなに気持ち良いのかな?
僕の言葉にニコルは口を閉じるけど後の祭りだ。手を動かしたら、結局また口を開けちゃうし。
「ひぅっ……シリル様……もう……っ」
「まだダメ」
真面目な話、エッチなことをするのが目的じゃない。
自分のマナを意識的に操作できるようになった僕は、魔法を使うこともできるようになった。
今は探知用にマナを放出しつつも、常時三つのマナの塊を体外で保っている。
更に何かできないかと考え、自分のマナを使って人のマナに影響を与えられないか実験してみようと思ったんだ。
結果が、これ。
「あっ、あっ、あっ! やっ、乳首、感じちゃ……!」
「うん、ここから出そうと思うから」
マナを放出している指先を回し、ニコルのマナの流れを乳首に誘導する。
誘導したマナを体外に排出できたら成功だ。
マナを出す場所は別にどこからでも良い気もするけど、イメージしやすい場所が一番だよね?
「いやっ……出したら、おかしく、なります……! 今だって、もう!」
涙目で懇願される。
夕食会がはじまって人手が全部そっちに集まっているとはいえ、誰もやってこないとは言い切れない状況だから、余計焦りが募っているんだろう。
まぁ人が来ないのを見越して、わざとこの状況下でやってるんだけど。
今回で三回目になる実験なので、前もってボタンを外して寛げたニコルのズボンからは下着が覗いている。その下着の中心部分は既に先漏れの液でぐっしょり濡れていた。
「出さないと実験の意味がないし。大丈夫だよ、きっと」
あくまで僕のマナを通してニコルのマナを操作しているだけだから、僕が操作を止めればニコルのマナの流れが元に戻ることは実証済みだ。
「あっんん……でもっ」
「大丈夫、僕を信じて」
そういって僕が微笑むとニコルは何もいえなくなる。
どうやらニコルは僕の笑顔に弱いらしい。
「じゃあゆっくり出すからね」
急な流れを作らないよう、少しずつ量を気にしながらニコルのマナを誘導する。
乳輪をなぞるように、そしてその頂へ。
まるでその場所が下半身と直結しているかのように、ニコルはマナの動きを快感としてダイレクトに感じているようだった。
「あっ! あっ! くっ……ぅ……あ、あぁっ! やっ、出る、の、こわ、い……っ……ああぁー!!!」
スルスルとニコルの乳首からマナを引き出すのと同じくして、ニコルが溜まっていた下半身の熱を吐き出す。
背中を弓なりにしならせて下着を汚すと、脱力したニコルは尻もちをついた。
「あっ……ぁ……ぁ」
他人の手でマナを引きずり出されるのは、どんな感覚なんだろう?
まだ余韻が残っているのか、ニコルは小さく喘ぎ続けている。
ニコルの様子を見る限りじゃ、性感を多大に刺激しているようだけど。
くいっとニコルの乳首からまだ繋がっているマナを引っ張った。
「ひぅっ!?」
「気持ち良かった?」
「っ……ぁ……はい……あっ! ダメです、引っ張らないで……!」
まだマナが繋がっているのを察したニコルが泣き顔になる。
楽しい、と感じてしまう僕はもうダメかもしれない。
「まだ感じるの? それともニコルは元々胸も感じるのかな?」
「ふ……ぅぅ……シリル様、イジメないでください……」
「ごめんね、あまりにも良い反応するから」
つい調子に乗ってしまう。
あまり時間をかけて本当に人がきてしまっても事だから、今日はこのぐらいにしておこう。
マナの操作を止めた途端、体外で繋がっていたニコルのマナが霧散する。
体内の方もいつも通り、元の流れに戻っていくのを確認した。
「替えの下着は用意してあるんだよね?」
「はい……、少し失礼します」
落ち着いてきたのか、そそくさとベッドを降りると、ニコルは僕から見えない位置で着替えはじめた。
衣擦れの音だけが聞こえる。
それも少しのことで、すぐにニコルは僕の傍に戻ってきた。まだ若干頬は赤い。
「自分はお役に立ちましたでしょうか?」
「うん。ちゃんと外に出せることも分かったから良かったよ。ありがとう」
軽く手を上げると、僕の行動を察したニコルの方から体を屈めて頭を寄せて来る。
綺麗な黒髪は今日もサラサラと流れて、僕の手をくすぐった。
撫でると嬉しそうにニコルが目を細める。
いつだったか、彼にとって僕はどういう存在なのか聞いたことがある。
『自分のただ一人の主人です』
そう笑顔で答えられた。
あまりに確信的にいわれたので、なるほど僕は黒犬を手に入れたのかと思ったものである。
◆◆◆◆◆◆
高等学術研究所の合否が分かるこの時期、あちらこちらで晩餐会が催される。
我が家では貴族庶民問わず、普段お世話になってる人や身内を中心に誘うことにしたので、立食形式の夕食会と相成った。
それももう終わりを迎えようとしているらしい。
屋敷を離れる馬車の音が聞こえる。
その音を一緒に聞きながら、僕の髪を櫛ですいているニコルが気遣わしげに声をかけてきた。
「慌ただしくありませんでしたか?」
「はじまる前に部屋に籠もったしね。母様たちは凄く大変そうだったけど」
昼過ぎにはエントランスホールは花で埋め尽くされていた。
花の美しさより、お礼の手紙を用意する量を考えて、溜息をついていた母様の姿を思い出す。
僕に会いたいという人もいたみたいだけど、それは遠慮してもらった。
せめて外に出られるようになるまでは、お客様との対面も控えた方が良いだろう。
「……寂しくは、あられませんでしたか?」
「どうして?」
意図しない質問にニコルを仰ぎ見る。
「ご家族は皆夕食会に出られているのに、お一人でお部屋に籠もられて……」
「ニコルもいたじゃない」
「それは……そうですが」
今更だという思いの方が強い。
ベッドの上で過ごした記憶しかなかった僕に、部屋の外の記憶ができたのはつい最近のことだ。
それに家族が気遣ってくれているのを知っている。
今も昔も変わりなく大事に大事にされていることを知っているから不満はない。子供扱いされるのは不満だけど。
本当に一人っていうわけでもないし。
「実際に一人でいたら鬱々としちゃうかもしれないけど。ニコルのあんな喘いでる姿見て、寂しいとは感じないよ」
「シリル様……!」
後ろにいるニコルの顔は見れないけど、恥ずかしそうにしているのは伝わってくる。
攻められるのは慣れてないのか、反応が初心なんだよね。
「あ、最後のお客様も帰ったみたい」
「一人ひとり判別できるのですか?」
「やろうと思えばできるよ。今は大雑把に見ただけだけど」
「シリル様のお力は本当に素晴らしいですね」
「気持ち良いし?」
「……イジメないでください」
笑っていると、部屋の扉が大きく開かれた。
「シリル! 寂しい思いをさせたな!」
「旦那様、お静かに」
ニコルの注意を無視した父様は数歩で僕の元に辿り着くと、その勢いのまま僕を抱き上げた。
力任せに押し付けられる頬が鬱陶しい。
「おお、うちのお姫様は今日も可愛ら……ぶへっ」
反射的に顔を叩く。
わざとか、わざといってるのか。
「僕は男です。可愛くもないです」
「そうかそうか」
くっ、全然効いてないな。
眉根に皺を寄せる僕に対し、父様はデレっと相好を崩している。
やはりここは母様に手刀を打ち込んでもらうしかないのか。
うりうり頬を押し付けてくるのを止めたいが、僕の力では糠に釘……。
「親父、あんまりすると嫌われるぞ」
「なんだ早かったな」
「……お風呂に入られたんですか?」
兄様を見ると──父様に抱き上げられた状態でも兄様と変わらない目線に若干ヘコみながら──、兄様はさっぱりと寝間着に着替えていた。
「軽く汗と匂いを流してきた。香水の匂いがきついのは勘弁して欲しいよなー」
「それだけお前に気があるお嬢様方が多いってことだろう」
「お嬢様っていう年齢超えてる人もいたけどな……」
ふむ、身内中心の集まりだと思ってたけど、案外身内以外にも人が集まっていたのかな。
確かに香水の匂いをまとったまま部屋にきていたら、ニコルが追い返してるところだ。
兄様の判断は正しい。
「しばらくはこっちにいるし、今日は一緒に寝ようなー」
ちゃっかり枕持参で兄様が僕に笑いかけてくる。
『今日も』の間違いじゃないかな?
「明日は父様と寝るか?」
「遠慮します」
何故兄様に対抗してきた。
僕が即答したのが悪かったのか父様がむくれる。
「たまには父様と寝たって良いだろう」
「二人でですか?」
それはちょっと……この年で父親と二人で寝るのはちょっと……。
「父様たちの寝室で三人ででも良いぞ。母様も喜ぶぞ?」
「わざわざオレがいるときじゃなくてもいいだろ」
「お前がいるときじゃないと、見せ付けられないだろうが!」
だから何で兄様に対抗してるんだよ!?
三人で寝るなら、もう四人でも良いよね!? ……ベッドがもたないか。
「親父、そろそろシリルの白い目に気付こう」
「違うぞシリル! 何も父様はお前たちの仲の良さに嫉妬してるわけじゃないぞ!」
「父様そろそろ下ろしてください」
「シリルが反抗期!?」
問答無用で抱き上げておいて何をいってるのか。
僕がたしたしと父様の胸を叩けば、しぶしぶ父様はベッドに下ろしてくれた。
乱れた着衣をニコルが瞬時に直していく。
「あらあら私がウォルトとお返しの算段をしている間に、随分と楽しそうだこと」
声につられて部屋の入り口を見れば、笑顔のまま背後に炎を背負った母様が立っていた。
ビクッと父様の肩が揺れたのを僕は見逃さない。
「良いんですのよ? 私はここ数日バタバタして、シリルとあまり時間が取れませんでしたけど、えぇ良いんです。私を放ってでも、可愛らしい息子に会いたいですわよね? 何を置いても我先に向かいたいものですよね?」
笑顔のはずなのに、般若の顔に見えるって不思議だなー。
僕が現実逃避していると兄様もさり気なく母様の視界に入らないよう部屋の隅に移動していた。
父様に合掌。
「い、いやな? お前を放っておいたつもりはなくてだな?」
「ふふふ、存在自体を忘れておいででして?」
「まままさか!」
どもり過ぎです、父様。早く母様に殴られてきてください。
それできっと解決するはずだ。
しかし父様は母様に近寄ろうともしない。そればかりか若干後退している。
仕方ない……助け舟を出すか。僕はニコルにアイコンタクトを送った。
「母様お疲れ様です。ここで一息つかれてはいかがですか」
「あらシリル、お邪魔じゃないかしら?」
「母様を邪魔になんて思ったことありませんよ」
笑いながら僕がいつも母様が座っているベッド横の椅子へ手を向けると、時を同じくしてニコルが温かい紅茶を淹れて持ってくる。
火属性の魔石を取り付けたポットは、その場でお湯を沸かせる優れものだ。
僕がいつでも水分を取れるように、ベッド横には常に新鮮な水が確保されていた。
「まぁ有難うニコル。……ふぅ、やっと座れたわ」
「まさか昼食を取ってからずっと立ちっぱなしだったんですか?」
「あれやこれやと動き回ることが多かったの。どこかの誰かさんは私に丸投げだし。あら、ジュールどうしたの? 今日の主役がそんな部屋の隅に行って」
母様の怒気から逃げてたんです、とは誰もいえない。
「ニコル、オレにもお茶ー」
「飲まれるんですか?」
「……お前オレに対してだけ態度キツくないか?」
「父様にもですから、兄様にだけじゃないですよ」
「それもどうなんだ?」
「自分はシリル様の侍従ですから、シリル様の体調を無視するような方には厳しくしているだけです」
そんなことをいいながらも、ちゃんと人数分の紅茶を出すニコルはできた侍従である。
お茶を出す順番がおかしい気もするけど、母様が我が家の一番なので問題ない。父様が一番最後なのは仕方ない。
めいめいに紅茶を受け取って、母様以外はベッドの端に腰かけた。
こうして家族団らんするのがうちの基本スタイルだ。
そこにはもういつかの悲壮感はなくて、他愛もない話で皆が笑っている。
──だから本来は今日が僕の命日だったなんて、誰も思いもしなかっただろう。
一つ目の壁は乗り越えられたと思う。
果たして僕はこのまま決められた運命を変えることができるんだろうか。
ゲームの主人公はどうだろう? ゲームでなら兄様が高等部三学年に進学したと同時に入学してくるはずだ。
僕としては兄様が辛い思いをせずに済むなら、主人公の女の子が現れようが何をしようが構わないといえば構わないんだけど。
ただ前世の記憶にあるゲームの筋書き通りにならないことを祈るばかりだった。