002─自宅療養編─

 兄様のように弟を溺愛する人を『ブラコン』と呼ぶらしい。
 どれくらいのブラコンかというと、まず帰省している間は僕の傍から離れない。トイレの介助までしようとしてくるから、ニコルに止めてもらったほどだ。
 この調子ではダメだと、何度か距離を取ろうと僕なりに試みてみたんだけど……。

「んんっ」
「どうした? どこか痛むのか?」

 否定的な声を出せば症状が悪化したのかと疑われ、体を離そうとしても同様に接触しているところが痛むのかと心配された。

 咄嗟に言葉を話せない分、言いたいことを伝えることができない。
 ジェスチャーはどうかと腕を動かしてみても、今まで距離を置こうとしたことがなかったからか上手く理解してもらえず、もどかしさが募るだけだった。

「最近は腕を伸ばせたり調子が良いみたいだな。だからって無理するなよ? 何かして欲しいことがあればオレがやるからさ!」

 終始ニコニコと僕に張り付く兄様を母様は微笑ましく眺めていたけど、ニコルは日常の業務リズムを狂わされるのか、たまにこめかみをピクピクさせていたのが印象に残ってる。
 寄宿舎に戻っても毎日手紙を欠かさないし……率直にいって、今のところ弟離れさせる方法が全く思いつかない。
 とりあえず体力をつけて、言葉を難なく話せるようになることが先決だろうか。

「シリル様、こちらはどうですか?」
「ん」

 ふるふると頭を横に振って否を告げる。
 意識的にマナを放出させることができるようになった僕は、あれから大きな痛みに悩まされることもなくなっていた。
 眠っている間も記憶の海でマナを使った探索ができるのは自分でも凄いと思う。
 少しずつだけど体調も良くなってきて、人とのコミュニケーションも取れるようになったからか、周りの皆の笑顔も増えた気がする。

 そして今僕の目の前には、ありとあらゆる食材が並べられていた。
 マナ含有量の多い食材は夢見病を悪化させてしまうので、マナの探知によってそれを選別するためだ。
 僕が細かくマナ含有量を計れることに周囲が気付いてからの日課だった。
 食材の選別が終わったら、今度は調理方法の確認が待っている。

「シィナの実はダメ、と。今日はここまでに致しましょうか。大分と資料もできてきましたから、ベロム様もお喜びになられますよ」
「うん!」

 言葉を発しない日々が多かったせいか、まだ上手く呂律が回らない。
 時間をかけないと会話ができないから頷く程度でしか反応を見せられないけれど、資料が増えたことは純粋に嬉しくて、ふわりと笑みが浮かんだ。
 これで少しでも夢見病と上手く付き合える人が増えたらいうことはないんだけど。
 僕の様子をニコルも微笑ましそうに見ながら食材を片していく。

 どうやら他の人には正確なマナの含有量は分からないらしい。
 食材のマナ量について疑問に思って聞いてみたら、著名な魔法師でも判断がつかないという。
 これも前世の記憶からマナの流れを意識できるようになったことが影響しているんだろうか?
 ならせめて食材の選別をすることで、この世界に根付いた病の治療法を見つける第一歩になれればと強く思う。

 今こうして僕のマナ放出が上手くいって、多少なりとも体調が改善したのは、『彼』という前世の記憶があったからに他ならない。
 他の人が同じ方法をとれない以上、僕にできることがあるなら力を尽くしたかった。

「近々またベロム様が診察にこられると伺っています。最近は体調も良いですし、またたくさんお話しできたら良いですね」
「そうだ、ね!」

 オディロン・ベロム。
 僕の夢見病の診察にきてくれている先生は、なんと国の魔法庁長官だった。
 魔法庁とはその名の通り、魔法師たちを束ねる政府機関で、魔法の研究を一手に引き受けているところだ。

 魔法師のトップである人が、貴族といっても階級の低い僕のところにどうしてきてくれるのかと思ったら、どうやら先天性の夢見病患者で僕は最年長らしい。
 僕が一日でも長く生きれば、それは記録になる。

 兄様が寄宿舎へ戻るのと入れ替わるように訪問してくれたベロム先生は、僕の比較的元気そうな姿を見て驚いていた。
 言葉は悪いけど、今度こそダメなのではと思っていたという。それだけ状態が悪かったと。
 そこからどうやって回復したのかを聞かれ、長い時間をかけてマナの放出について説明した。まだ長く会話を続けられるほどの体力はない僕である。それはそれは長い時間を要したけど、先生は根気よく僕の言葉を待って聞いてくれた。
 流石に中国医学については説明できなかったから、『気の流れ』を『血の流れ』に変えて伝えたけれど。

 それでも病床に伏している身で、そんな発想と想像ができる僕を先生は多いに褒め称え、一緒に話を聞いていた母様が『うちの子、天才!』といい出して、僕はただベッドの上で縮こまっているしかなかった。
 魔法の行使には適切な想像力も必要になるらしく、夢見病でなければ高名な魔法師になれたと先生が太鼓判を押してくれるものだからもう。
 悲しいかな、魔法を発動させられる量のマナの排出はできないままだというのに。

「シリル様、お食事の前にマッサージはできそうですか?」

 これも最近はじめた日課だった。頷いてニコルに大丈夫だと示す。
 食事といってもまだ流動食なんだけど、毎食前に凝り固まった筋肉をほぐすためニコルにマッサージをしてもらっていた。

 今までは体内に多くのマナが溜まっていたせいか、触られるだけで痛みが走ったものだけど、延々放出を続けているおかげで、ようやくマッサージを受けられるようになったんだ。
 それでも場所によっては痛むので、できるところから少しずつ行っている。

「では失礼致しますね」

 ニコルが僕の寝間着のボタンを外していく。
 黒髪黒目でダークブラウンの肌を持つニコルは、僕には大人っぽく見えた。
 襟足に流れる髪はサラサラと光沢を放っていて、至近距離で見る長い睫毛も黒色なんだなぁと当たり前のことを思う。

「寒くなったらいってください」

 寝間着から腕を抜き、肩にかけた状態でマッサージを受ける。
 大体いつも次第に体がポカポカしてくるので、寒くなることはない。
 否応無しに目に入る、枝のような自分の腕を見る度、鏡に向き合う自信がなくなっていくけど。
 顔の頬にも肉がついてきたとは思う、それでもきっと傍から見れば骸骨からは脱出できていないはずだ。
 自分の顔と向き合えないっていうのは少し悲しいよね。

「痛くありませんか?」
「ん」

 オイルを手に塗ったニコルが、腕を優しく撫でる。
 触れるほどでしかない接触は、少しくすぐったいぐらいかもしれない。
 スルスルと撫でられる感触に心地良くなって目を閉じる。

 動けるようになったら何をしよう。とりあえず庭に出て、花壇を眺めながら外の空気を吸いたいなぁ。

 指先からマナを放出していることもあって、ニコルの指が手に下りてきても気にしなかった。
 すっかり慣れていると思って油断したんだ。

「っ!」
「すみません……!」

 久しぶりに走った鋭い痛みに体がすくむ。
 一瞬のことで、すぐに痛みは引いたけれど、見ればニコルが泣きそうな顔をしていた。
 大丈夫だといいたい。
 けれど口が『だ』の形から上手く動いてくれない。
 焦れったいけど、何とか笑みを作って、ニコルの頬に指を伸ばした。
 輪郭をなぞるように撫でると、何とか気持ちは伝わったようだ。
 しかし。

「すみません」

 そういうとニコルは僕の指を自分の唇で食んだ。
 なにゆえ?

「ん……これなら、痛くありませんか?」
「…………」

 えーと指で刺激が強かったけど、唇でならどうだってこと?
 えー……。

「はむ……はむ、ん……」

 僕の反応で痛がっていないことは分かったのか、ニコルはそのまま唇での刺激を続行する。
 そこまでしてマッサージする必要があるのか僕にはもう分からない。
 時折僕の様子を窺う視線と目が合えば、ニコルの頬が赤く染まる。

 上目遣いで見上げられるこっちの方が恥ずかしいよ……!

 思わずマナで部屋に近寄る人間がいないか探った。マナは常に放出した状態なので、探らなくても誰か来れば察知できるんだけども。

「ん……ちゅ……はむ、はむ」

 遂にリップ音までし出してるし!
 先に塗っていたオイルのせいか、ニコルの唇がテラテラと光る。その合間から見える赤い舌。
 湿った感触が当たるのは気のせいだよね?

「ちゅ、ちゅ……ん」
「ぁ……」

 指が入った。

 どこに?

 ニコルの口の中に。
 指先が生暖かい感触に包まれる。

「ん……ん、れろ」

 舐められてます。先っぽを咥えられて、舐められてます。
 
「は、……ん、ちゅっ……ちゅっ」

 熱のこもった息が吐きかけられる。
 濡れた黒目が僕を見た。

「あ……っ……はぁ、ん……」

 あーえーぐーなー!

 え? 何? 『擬似フェラ』? ……そんな情報はいりません!
 無情に答えを出してくる前世が憎い。
 完全に擬似フェラになってるんだけど、どこでスイッチが入ったんだろう?

「ちゅ、くちゅ……んっ……んんっ」

 僕の驚愕なんてお構いなしに、ニコルは指を三本咥え込むと、それを吸い上げた。
 吸いながら、くちゅくちゅと指を舐め回される。
 同時に揺れるニコルの腰に目をやると、僕の視線に気づいたニコルが声を上げる。

「ぁっ……すみません、我慢……できなくて……」
「…………」

 そこは我慢しようよ! と眼力で訴える。
 主人を自慰の道具に使うの、ダメ、絶対!

「はい……手は、使いません。腰を動かすのも……極力、やめます」

 股間を張り詰めさせて何いってんの、この人。
 ダメだ、訴えが微妙に通じてない!
 それ以前に指を咥えるのやめようよ!

「はむっ……ちゅっん、んっ……はぁ、こちらはこれで終わりますね」

 恍惚とした表情で、ニコルはオイルと唾液にまみれた僕の手を拭っていく。
 そして持ち上げられるもう一方の手。
 あぁ、やっぱりそっちも咥えるんですね。
 目線の先で自分の指がニコルの舌の上にのせられる。

「ぢゅっ、ちゅく……んぅっ」

 揉み込まれたときは痛みが走ったのに、どうして吸われる分には大丈夫なのか。
 吸われてるからとか? そんなバカな。

「はぁ……んっ、ちゅっ……はむ、はむ」

 ニコルの舌が指に絡みつく。
 指の付け根の間を舐め取られると、一瞬背中がぞわりと粟立った。
 寝たきりの体は快感に疎い。
 それでもれろれろと動かされる舌や、ニコルの濡れそぼった瞳を見るともどかしい感覚に襲われる。
 少し意趣返しをしてみたくなって、咥えらている指を押し込んだ。

「んぐっ……あっ、ふっ……シリル、さまぁ」

 するとちょうど指先が彼の上顎に当たって、ニコルが体を震わせる。
 まだ指は口の中だ。その口の端から唾液が流れ落ちている。
 雫が流れる様を見ていると自然と体が動いた。
 ニコルの方へ半ば倒れこむようにして、体を近づけるとちゅっと音を立ててその唾液を吸う。

「あぁっ……! ……っ……ふっ」

 上体を倒した僕を抱きしめるように受け留めると、ニコルはビクビクと体を震わせた。口内にあった指も抜け落ちる。
 彼の湿度と熱を持った荒い息遣いが耳に当たった。

「はぁ、はぁ……すみません、イッて、しまいました……」

 えっ、あれだけで!? 兄様のマネをしただけなのに!?
 確かに張り詰めてはいたけれど、とくに触ることはなかったのに。
 ……ニコルに変態執事という称号を与えよう。正確には侍従なんだけど、僕が一人立ちしたら、僕の執事になるわけだし。

「あぁ、シリル様……シリル様……」

 熱に浮かされた声でニコルが僕を呼ぶ。
 頬ずりされた肌が、やけに熱く感じた。
 とりあえずニコルの中で僕がどういう存在になっているのか、問いただしたいと思う。


◆◆◆◆◆◆


「ほぅ! これは素晴らしい!!!」

 僕が選別し、ニコルが結果をまとめた資料を受け取ったベロム先生は諸手を上げて喜んでくれた。
 身長ほどある長い白髪を背中に流して、豊かな白髭を撫でながら目を細めて笑う姿は魔法使いのおじいちゃんにしか見えない。
 実際に魔法庁長官なんだけどね。

「この資料は夢見病と戦う全ての者の希望になるじゃろう。だがの、シリル」

 にこやかな表情を一変させたベロム先生に、僕も頷くことで返事をする。

「お主のマナに対する感覚の鋭さは他に類を見ないものじゃ。魔法師として第一線にいる儂とて、静物のマナの量を見極めることはできん。お主のマナ排出量が徐々に増えていることは知覚できてもな」

 普通の魔法師は、対象が静物になるとそれは全て『少ない』としか感じないという。
 だから今まで食材に含まれるマナの量は見過ごされてきた。

「これが夢見病の恩恵なのかどうかは分からぬが、その感覚の鋭さは使いようによっては大きな力となるじゃろう。だが稀有な力は時として厄介事をもたらすものじゃ。前にもいった通り、このことは今しばらく儂とお主の家族だけに留めておく。なに、今回の資料については、お主が実際に食べて体調を悪くしたものとして公表すれば問題ないじゃろう」

 堅苦しくなった空気を和ますためか、またベロム先生が鷹揚に笑う。
 それにつられて僕の頬も緩んだところで母様が嬉しそうに声を上げた。

「あぁ、これでシリルの名前が世間に轟くのですね!」

 やめてください母様、恥ずかしいです。
 どうしてこう僕のことになると大袈裟な反応になるのか。

「そうじゃの。魔法庁が発表する公式の文書に、協力者という形ではあるが名前が載るのじゃ。ある程度は知れ渡ることになるじゃろう」

 ちなみにマナ含有量の成否については、前にベロム先生が色んな薬草を並べて、その中から僕がマナ回復薬に使われる薬草をいい当てたことで裏が取れた。
 今回の資料に関しては、実際に僕が食べて体調を崩したものも入っているから、まず間違いはないだろう。
 もっと体調がよくなって体力に余裕ができれば、一通り食して経過を観察してみたいとも思う。

「ジュールも目覚ましく剣技が上達していると聞きますし、我が家のなんて未来の明るいこと」
「ふぉっふぉっふぉ、素晴らしいことですな」
「はい! ベロム様をお忙しいところご足労頂き、感謝しております」
「それはこちらも同じこと。今やシリルの様子を見守るのは儂のライフワークになりつつあるからの」
「まぁなんて心強い!」

 ふぉっふぉっふぉ。
 おほほほほほ。
 二人が揃うと毎回この流れである。楽しそうなのは良いんだけどね? 
 ひたすら持ち上げられるばかりの僕は恐縮する一方です。

 この間、母様がこの国の王子のことを持ち出したときは、空いた口が塞がらなかった。
 そう、前世の妹さんの推しキャラだ。

 ここロンアラス国の第一王子であるラファエル殿下は、近年稀にみる量のマナを保有し、その排出量も多いため高名な魔法師から見ると光り輝いて見えるらしい。
 そんな王子は見目も麗しいらしく、王子と僕が同い年ということで母様が引き合いに出したんだ。
 僕はこんな状態なので拝謁したことはないけど、母様曰く、見た目も引けを取らないし、悪化の一途を辿っていた夢見病から回復を見せた僕は、王子と肩を並べてもなんら遜色はないとかかんとか。

 無理がある。流石に無理があります母様。親バカここに極まれり、です。

 あれか、僕は母様似だから、遠回しに自分の美貌も負けてないっていいたかったのか。
 大体うちは男爵家でしかなく、貴族の頂点である王族と比べるのは失礼に当たるんじゃないかと心配する。
 一緒に話を聞いていたベロム先生はただ笑ってたけど、よく不敬だって怒られなかったものだ。

「おぉ、そうじゃ、忘れておった。シリル、魔法の入門書を持って来てやったぞ」
「!」

 思わず前のめりになる僕をニコルが目にも留まらぬ速さで支える。
 普通に侍従をしてくれる分には優秀なんだけどなぁ。

「そう慌てるでない。勉強するのは良いが、実践するときは必ず誰か人に見てもらうんじゃぞ?」
「あらベロム様、シリルは魔法が使えないのでは……?」
「うむ、夢見病の患者には無理じゃ。だがシリルならもしかしたらと思うてな。魔法とは別の形でマナの運用ができるようになるかもしれん」
「そんなことが……!」

 あ、ヤバい。また母様の瞳が輝き出してる。
 まだ可能性の話ですよ!
 喜ぶのは実際に魔法を使えるようになってからにしてください!

「今意識的にマナを放出しとるじゃろう? それは本来、無意識に体が行うことじゃ。ということはシリルなら微量であれマナそのものを操れるのではないかと思うてな。ならば体の外で魔法の発動に必要な分のマナを溜めておくことも……これは儂の想像でしかないがの」

 なるほど、今まで広く遠くに放出することばかりに気が行ってたけど……溜める、か。
 これは試してみる価値があるかもしれない。今夜早速やろう。

「ふむふむ、良い目をしておるな。これは魔法庁の研究員がまとめたものじゃから、一般に出回っているものより難しい内容になっておる。ただその分、細かい分析も省かれることなく載っておるから、一から専門的に勉強するにはうってつけじゃ。きっとお主にはこういう物の方が役に立つと思っての」
「うん!」

 有難う! という気持ちを込めて大きく頷く。
 一般的なことを知ったところで、僕は普通にできることができない体質だ。
 多少難しさは増しても、それで自分なりに応用をきかせられるなら、そちらの方が断然良い。
 やっぱり魔法は使えるようになりたいもんね……!

「良かったわね、シリル。母も手伝いますから、一緒にお勉強しましょう」
「そういえばここにはウォルト・カディオがおったな。何を隠そうあやつとは高等学術研究所で机を並べて一緒に勉強した仲じゃ。卒業後、あやつは執事の道に進んだが、基本的なことなら答えてくれるじゃろうて」

 なんと、執事のじい様は魔法庁長官と同級生だったのか。
 あれ? 高等学術研究所って魔法の才能がある人が通う学校じゃ……しかもベロム先生と一緒に勉強するレベル。
 じい様はどうしてうちの執事をやってるんだろう?

「ふふ、厳しい方だけど、勉強した上での質問ならちゃんと答えてもらえますからね。怖がらなくても良いのよ」

 そういって僕の頭を撫でる母様の言葉に耳を傾けつつ、じい様の記憶を掘り起こす。
 思い返してみれば、僕、まだじい様とは話したことないんだっけ。
 マナ探索で普段どこにいるのかは一方的に知ってるけど。父様より多いマナの排出量に驚いたことを思い出した。
 雰囲気はたしか……寡黙な感じだ。
 そこまで記憶を遡ったところで、次第に瞼が重くなってくる。母様の手には癒やし効果でも付与されているんだろうか。

「長居し過ぎたようじゃの。今日はこのくらいにして、また近い内に様子を見にくるとしよう」
「ベロム様、本日も有難うございました」
「見送りはよいぞ。シリルについてやってくれ」
「お心遣い感謝致します」

 母様は僕を抱いたまま、頭だけ下げる体勢になる。
 母様の代わりにニコルが先生を先導し、部屋を出て行った。

「シリル、本が気になるでしょうけど、今日はもう休みましょうね。夕食ができたら起こしてあげますから」

 ここで無理をしても仕方ないので、入門書に後ろ髪を引かれつつも、僕は大人しく横になった。
 魔法が発動できれば、排出量に関係なく自動的に術式が体内のマナを吸い上げてくれるので、夢見病で倒れることはなくなる。
 夢見病患者にとって、魔法を発動させることは悲願だった。


◆◆◆◆◆◆


 ふいに目が覚めて、辺りを見回す。
 今は深夜ぐらいだろうか。カーテンの隙間から差し込む光もない。
 暗闇の中、常夜灯だけが淡く部屋を灯していた。
 人の動きがなく静まり返った室内、外から微かに聞こえる虫の鳴き声に昼間とは別世界のようだと思う。

 夕食を食べた後、入門書のさわりだけを母様に朗読してもらった。
 文字は読めるけど、まだ簡単な文章しか読み解けなくて、こちらも合わせて勉強が必要だ。

 けれどそれが嬉しい。
 たくさんやることがあって、予定が増えていくのが。
 自分は生きているんだと実感する。
 まだまだやれることがあるのだと。

 ちなみに入門書の内容はやはり難しそうだったけど、今の僕の理解力があれば何とかなるだろうと思えた。

 どうして前世の記憶が現れたのかは分からない。欲しくない情報をくれたりもするけど、視野が広がってたくさん考えることができるようになったのは僥倖だ。
 そういえば先生にいわれた、マナを体外で溜めるっていうのも試さないと。
 入門書にテンションが上がってすっかり忘れてしまってた。

 壁を見上げた先に星がある。
 ちょうど天井との境目の下に。
 夜はカーテンを閉めてしまうので、星の見れない僕のために、兄様が父様に肩車をしてもらって描いた星だ。
 白いクレヨンでも使ったのか、白色で描かれたそれは前世で知っている星のマークと同じ形だった。

 全く違う世界に思えても、知識は通じる。
 それはやはりこの世界が作られたものだからだろうか。
 けれどマナを操作できるのも、気の流れという考え方が通用するからだし……。
 そういった意味では、前世の記憶が通用するのが凄く有り難かった。

 マナを溜める形を考える。
 コップにそそぐ感じ? でもそれだと容れ物を別に用意しないといけないからダメだ。

「……?」

 どうしようか悩んでいると、マナ探索に誰か引っかかった。
 誰か部屋に来る? こんな時間に誰……このマナの量は執事のじい様かな?

「おや、起きておいででしたか。……主人が目を覚ましているのに気付かないとは、ニコルもまだまだですね」

 目を覚ましただけで、隣室で寝ているニコルが起きてきたら僕がびっくりするよ。

「私は見回りをさせて頂いております。いつもは眠られている時間ですから、ご存知ないでしょうが」

 ……マナ探索で感知していましたとはいえない。実際僕は寝てたんだし。その特異な状況を説明するのは、気の流れ以上に難しいように思う。
 じい様は表情を一切変えないまま僕の枕元まで来ると水差しを持った。

「起きられたなら、水分を取られた方がよろしいでしょう」
「ん……」

 僕が頷くと、じい様が上体を起こすのを手伝ってくれて、口にコップがあてがわれる。
 ふふん、もう布は卒業したんだ!
 こくこくと飲み込んで、ほぅと息をつく。

「まだ朝まで時間があります。眠られた方がよろしいですよ」
「んん……」

 それは分かっているんだけど、中々寝付けそうにはない。
 マナの蓄積方法も考えたいしなぁ。
 思考と同期するように視線をゆらゆら揺らしていると、じい様がポンポンと軽く胸を叩いてくれる。
 母様も僕を寝かしつけるときにたまにやってくれるやつだ。
 じい様の表情は変わらないけど。
 うん……効果はありそうかな?
 もしかしたら僕は人の体温に弱いのかもしれない。人の温もりを感じると、一気に緊張がゆるむんだ。

「眠られるまで、お傍におりますから」
「ん……」

 母様は僕がじい様を怖がるようなことをいっていたけど、こうして接している分には全然怖くない。
 確かに終始ポーカーフェイスで表情が変わらないから、小さい子供とかは怖がるかも? ニコルの祖父だけあって、じい様も中々の美形だから余計に。
 腰まで伸びた白髪を後ろで一つにまとめているけど、実年齢よりも大分若く見える気がする。
 長い白髪は僕とお揃いだなーなんて考えながら、僕はあっという間に眠りに落ちた。

 暗闇に落ちる意識の中で、コップに入った水のことを思い出しながら……。


◆◆◆◆◆◆


 眠りにつき、記憶の海に下りた僕はマナの蓄積について考えていた。
 夢見病さえどうにかできれば、無理に兄様と距離を置く必要もなくなる。
 流石にずっとべったりなのは困るから、ゆくゆくは離れてもらわないととは思うけど。

 コップに水を入れるように、単純に何か容れ物にマナを溜めるのはどうだろう?

 この世界ではマナを溜める容れ物に魔石という特殊な鉱石を用いる。
 マナが入っていない状態のものは無色透明で、蓄えられるマナの属性によって色が変わる仕組みだ。
 火山の近くで採掘される魔石は火属性のマナを多く含むため赤色をしているという具合に。
 そして特に決まった属性のない場所で採掘される魔石は、マナの含有量も少なく無色のものが多い。

 一般的な魔石は、主にランプなどの燃料として使われ、家庭でも公共施設でも利用されていた。
 魔石の中でもマナ含有量の多い希少なものは、攻撃魔法にも転用が可能だから、国が管理しているらしい。

 魔石自体がマナを吸引するわけじゃないから、僕の排出量で地道に溜めるしか方法はないんだけど、無色の魔石を容れ物に使うのが一番手っ取り早いように思えた。

 だけどそれじゃダメなんだ。

 魔石に溜めた時点で、僕のマナは僕から切り離され『魔石のマナ』になる。
 それで行使した魔法は魔石の中のマナを使うだけで、僕のマナが魔法に転換されることはない。

 マナを僕に紐付けした状態で蓄えるには……そうか、『紐』か。
 もっというなら『糸』。
 ただ垂れ流すのではなく、蚕が糸を吐き出すように、僕もマナを糸として排出することはできないだろうか。

 そして紡いだマナの糸で布を……いや、布よりは毛玉にして丸めてしまった方が良いかな? 文字通り、マナの毛玉を僕と紐付ける。

 うん、このイメージで試してみよう。

 マナ探索もしつつ、糸に割くマナの量は微量にして。
 今まで十本の指から探索用に放出していたマナの内、一本を糸として排出するイメージを作る。
 その糸が途切れないよう、しばらく記憶の海で試行錯誤が続いた。