001─自宅療養編─
「思考は現実化する」とナポレオン・ヒルはいった。「事実は小説よりも奇なり」とバイロンはいった。
皆一度は試したことがあるんじゃないかな?
自分に特別な力がありはしないかと魔法を詠唱してみたり、念力で物を動かせないかと意識してみたり。
ほらほら覚えがあるんじゃないかな?
この世界は十一次元でできているという。
この世界は自分の認識しているものでしかないという。
わけ分からないよね。知ったこっちゃないよね。
何が正解で何が間違いかなんてさ、ボクには関係のないことだもの。
だってここは魔法が使える世界だもの。
君の世界と似ているところもあるけどね!
ボクはトリックスター、君もトリックスター。
さぁ、夢の世界へ飛び立とう!
けれど気をつけて……ボクには関係なくても、君には関係なくても、世界は存在しているんだ。
鏡に映った君を、誰かなんて聞くまでもない。
君は君だ。
でも忘れないでおくれ、他人は自分を映す鏡だというように、鏡は一つではないということを。
ねぇ、トリックスター。
君は善であり、悪であることを忘れてはならないんだよ。
◆◆◆◆◆◆
『トリックスターは鏡の中で夢を見る』
◆◆◆◆◆◆
体がバラバラになりそうな、神経を焼く鋭い痛みの中で走馬灯を見た。
画面の中でピエロが踊り、語る。
見たことのない鮮やかな景色、知るはずもない知識が頭を駆け抜け──、
「ごほっ! ぁ……ぐっ」
僕は血を吐いた。
咳き込んだ拍子に、炎症を起こした肺と喉が傷ついたみたいだ。
今のは何? 疑問が浮かぶけれど、気管が狭まる息苦しさでそれどころじゃない。
背中が丸まり、無意識にどこかへ手が伸びた。
その手を握る誰かの温もり。
「シリル! シリル……! 母はここにいますからね!」
声が聞こえる。
聞き慣れた誰かの声、しかし痛みが支配する頭では『誰か』を特定することができなかった。
痛い。ただ痛い。
指先を動かしただけでも全身を貫く痛みに、僕は再度意識を手放した。
暗い、暗い闇の中を沈んでいく。
横になった状態で、ゆっくり背中から落ちていく感覚は、はじめて感じるものだった。
ゆらゆらと揺れる手足が心地良い。
底まで下りると、体を起こして周囲を見渡す。
夢の中だろうか?
だとしたら先ほど脳裏に過ぎった景色も夢……?
思い出すと、脳がぐわんっと回った気がした。
知識が、それは夢ではないと告げる。
そして更にこう告げた。
『ここは乙女ゲームの世界だ』と。
突如あふれ出した知識の量に、僕は戸惑うことしかできない。
頭を振って、辺りを見る。
そこには闇しかない。
けれど頭上を見上げれば光が下りてきているのが分かった。
まるで海の底にいるみたいだ。
……僕は海を知らないのに。
病気のことだってそうだ、僕は喀血《かっけつ》の理由が炎症を起こした肺と喉なんて知らない。
でも、知っているんだ。
『輪廻転生』『前世』『異世界』『転生/トリップ』
様々なキーワードが現れ、消えていく。
それは知らない誰かの人生に付随したものだった。
洪水のように僕を襲った知識は誰かの記憶だったらしい。
彼には妹がいた。
僕には兄様しか兄弟はいない。
彼の妹はゲームが大好きで、その中でも乙女ゲームと呼ばれるものをよくプレイしていたみたいだ。
プレイしては彼に内容を話し、特にお気に入りのものは彼にもプレイさせていた。
冒頭でピエロが踊る『トリックスターは鏡の中で夢を見る』もその一つだった。
主人公の女の子が、魔力を暴走させたのを切っ掛けに学園へ入学して、そこで出会う同級生や上級生、教師と愛を育む物語。
妹さんの推しキャラは同級生の国の王子様で、彼の推しキャラは上級生だった。
何気に彼もハマっていたらしい。
そして彼のお気に入りの推しキャラである上級生は……兄様だった。
見た目は確かに今の兄様をそのまま大きくした感じだったけど、雰囲気が粗暴で僕の知っている兄様とは全然違う。
どうしてだろうと興味を引かれて記憶を紐解き、後悔した。
兄様が荒れる切っ掛けになったのは、僕だ。
僕、シリル・バシュラールが夢見病で命を落としたのがその原因らしい。
……死ぬのか、僕は。
分かっていたことだけど、改めて突き付けられると胸が痛む。
僕が死ぬことで兄様の未来に影を落としてしまうとなれば尚更だ。
しかも後二年の命……。
え!? いやいや待って早くない!?
夢見病は短命みたいだけど、そんなに短いの!? ……僕は思わずその場で頭を抱えてしゃがみ込んだ。
『夢見病』
先天性と後天性のものがあるけど、僕は先天性の患者だった。
先天性の場合、症状が悪化するのは大体三才を過ぎてからで、更に病状が進めばベッドから起き上がれなくなる。
そしてそのまま亡くなることから、患者がベッドで夢を見続ける病気『夢見病』と呼ばれるようになった。
彼の世界にはなかったようだけど、この世界には魔法がある。
魔法の行使には体内で作られるマナが必要だ。
夢見病になると、そのマナが体内から排出されなくなり蓄積され続けてしまう。
そして必要以上に溜まったマナが、体を中から傷付けてしまうらしい。
日々生じる激痛に否が応でも悟る。
自分はこのまま死んでいくのだと。
むしろ楽になれるなら死にたいと思ったことも数え切れない。
家族や周りにいる人たちが悲しむから、口に出したことはないけど。
でもそれも本心じゃない。
生きていられるなら、生きたかった。
優しい家族と離ればなれになんてなりたくない。
だけど、どうすれば良い?
夢見病は治療法のない難病だ。
記憶を探ってもゲームの中で治療法が確立されたような情報はない。
けれどこのまま僕が死んでしまったら兄様が変わってしまう。
優しい兄様が、あんな言葉を、あんな表情でいうなんて……僕はどうしたら良いんだろう?
──抗え。
生きることを放棄するな。死に抗え。
そう彼にいわれた気がした。
ハッとして、今一度記憶を掘り返す。
そうだ、彼はこの世界を知っているんだ。それはゲームで、作られたものだったとしても、僕はここに生きている。
まだ生きている。
僕は少しでも生き永らえる方法はないかと、記憶の海に沈んだ。
◆◆◆◆◆◆
「あっあん……! ニコル、そこっ、イイ! もっと、もっと突いてぇ」
「……この、好きものがっ」
髪が乱れ、汗が飛ぶ。
重なり合う体からは熱が放出されていた。
接合部からぐちゅぐちゅと淫らな音が立ち、時折どちらともつかない吐息が被さる。
「あっ、あっ……だって、ニコルの、すごいっ、あぁぁ!」
「声を殺せ、奥様に聞こえたらどうする」
いうが早いか、青年の薄汚れた前掛けを外すと、無理矢理彼の口に押し込んだ。
「ん、んぅ!」
ただ精を吐き出したいだけの行為だった。
自分はズボンの前を開けただけだが、厨房から抜け出してきた青年は、四つん這いになり白い臀部を露にして与えられる快感にされるがままになっている。
ビッチが。
ぐっと青年の前立腺に昂ぶりを押しやれば、悲鳴を上げるように彼が仰け反った。
今にも死にかけてる人間がそこにいるっていうのに。
悪態をつくが、同時に誘いにのる方も同罪だと自戒する。
骨と皮しかなく、些細なことでも折れてしまいそうな悲惨な体から、目を背けたかったという思いは言い訳にならないだろう。
……ここ最近、吐血が続いている。
シリル様はもう長くない。
誰も口には出さないが、周知の事実だった。
生後三ヶ月で付けられた病名は、この国なら知らぬ者はいない、対処療法さえ確立されていない難病だ。
彼の両親も兄も、この屋敷で働く人間は皆、そのときを覚悟している。
だから祖父が自分を彼の侍従に任命したときは、怒りしかわかなかった。
何故未来ある兄の方ではなく、ただ死を待つだけの弟につかねばならないのかと。
しかし逆らうことは許されず、嫌々ながらも体面を保ち世話を続けていた自分の行動は、傍目にはさぞ献身的に映っただろう。
その甲斐あって、今は後を任され、こうして精を吐き出す時間が作れたわけだが。
「んっ、んっ! んん!」
「なんて非生産的な」
今の自分も、ベッドで眠る彼も。
自嘲に顔を歪ませながら腰を打ち付けラストスパートに入る。
最初は嫌々だった。
ポーズでも献身的に見えるよう世話をしていれば、肌が触れ、体温を感じる。
余命幾ばくもない彼が、今は生きていることを知る。
そんな彼は意識があるとき、顔に笑みをのせた。痛みに体を蝕まれながらも、自分を気遣い笑いかける。
言葉はない、病で強張った表情にのる、微かな微かな笑みであったけれども。
その度に自分は思い知らされるんだ。
己の無力さを。
「んぐっ! んぅっ、んー!!!」
「ぅ……っ」
最奥まで挿入し、精を放つ。
うねる内壁に搾り取られるようにして全てを出し切ると、ほぅ……と息をついた。
それからの行動は早い。
引き抜いた性器を持っていた布切れで拭うと、それを未だ伏している青年のポケットにねじ込む。
後はズボンの前を閉めるだけで身なりは整った。汗は自然と乾くだろう。
音が漏れないよう閉めていた窓を開けて、風魔法で換気することも忘れない。
未だ尻を突き出している青年を一瞥するとチッと舌打ちを鳴らす。
「早く厨房へ戻れ、愚鈍が」
「……鬼畜……」
涙目で見上げてくる青年に蹴りでもくれてやろうかと思った矢先、目端に映った異変に気づく。
「シリル様?」
その言葉を聞いた瞬間、青年は血の気を引かせて、着衣を乱したまま一目散に部屋から走り去った。
だったら最初からここで盛るなといいたいが、やはり自分も同罪なので後ろ姿を睨むに留める。
「…………」
シリル様に続く動きはない。
指先が動いたように見えたが、起きたわけではないらしい。
あと何回、目を開けた姿を見られるだろう。
体はすっきりしても、心は晴れない。
暗雲たる気持ちを胸底に隠し、己の主人の顔を覗き込む。
くぼんだ眼窩に、こけた頬。美しい母親に似た相貌は今は見る影もない。
生まれた当初は兄と同じく父親譲りの赤髪だった頭髪も、度重なる心労に耐えかねて真っ白になってしまっている。
辛うじて皺の少ない顔が老人ではないと分からせるが、痩せ細った姿に違いはなかった。
「シリル様……」
あと何回、こうして名前を呼ぶことができるか自分には分からない。
けれどすっかり様変わりしてしまった思いを、唯一の主人の名前にのせる。
痛みに枯れ果て、目を覚ましても呻くだけの姿を目の当たりにしながら、一日でも長くお仕えしたいと思うのは罪だろうかと考えながら。
◆◆◆◆◆◆
えーと……多分ニコルだよね、侍従の。
もう一人は分からない。ただ感じ取れた風貌から調理担当かな? と思う。
記憶が『BL』だの『ホモ』だのと訴えてくるけど、正直今の僕には受け留め切れなかった。
二人で重なって何をしているのかも分からなかったのに、非常にも記憶が答えをくれるのが悩ましい。
瞬間、闇が広がる空間でバチッと火花が散るような感覚に襲われた。
病気に関する記憶の中に、中国医学の『気』というもの見つけて、それを応用した結果だろうか。
思考を自分自身の事へと戻す。
生命活動の原動力となる原気。それは下腹部に集まり、経路を介し末端へ伸びる。
僕はその力の流れを自分のマナと結びつけて想像した。
マナが体を巡り、指先から排出されるのをイメージしていく。
気付けば不思議と周囲を知覚できていた。
ソナー、魚群探知機……僕が排出したマナが、そういったものの様に作用しているのかな?
色や音を感知することはできないけど、形は分かりやすかった。
物よりは人、生きているものほど詳細が分かりやすいのは、対象が保有しているマナの量の差だろうか。
これ以上は考えても分かりそうにない。
けれどこの記憶の海にいる間は、痛みを感じることもなく自由な時間を過ごせるのが楽しかった。
周りのことを感じ取れるのも嬉しい。
まさか僕の部屋でニコルがあんな……いや、忘れよう、ニコルも忘れて欲しいはずだ。
バチバチッとまた火花が散ったように感じられて、僕の意識は急浮上した。
「シリル様!」
ニコルの端正な顔が目に飛び込んできて、自分が起きたことを理解する。
刺すような痛みは少ないけど、体は動かせそうにない。
動かせたら動かせたで、痛みが列挙として襲ってきそうだ。
「ぁ……」
「布に水を含んでおりますから、それを咥えてください」
唇に湿った布が当たっても、いわれた通りに口を動かして咥えることができない。
視線で声の主に訴える。
「失礼します」
僕が動けないのが分かったのか、ニコルが手を伸ばし布端を僕の口に差し込んだ。
舌先に流れる水分に全身で強張っていた力が抜ける。
しかしちろちろと舌で舐め取っていたせいか、布が口から落ちてしまう。
その都度落ちる布をニコルは根気よく僕に与え続けてくれた。
「何か食べられそうですか?」
「…………」
そっと目を伏せて、否を示す。
たったそれだけの動作でもニコルは意を汲んでくれたようだった。
白状すると、体力のない僕は今の水分摂取だけで疲れてしまっている。
「では……果実を搾ったものをご用意しますね」
少しでも僕に栄養を取らせたいのだろう。
ニコルは先ほどと同様に果汁を布に染み込ませた。
懸命に世話をしてくれる姿に、行為の面影はない。
そうだ、と思いニコルを見つめる。
「シリル様? どうか」
僕の視線に気づいて振り返るニコルに、できるだけ穏やかな笑顔を送った。
大丈夫、ニコルがどんな性癖の持ち主でも、僕は否定しないからね!
男同士では色んな問題があることを知った今、僕はニコルを応援することしかできない。
だけど僕の部屋ではやめてね! という願いを最後に付け足す。
「シリル、様……」
すると、ぽろりと一筋の涙がニコルの瞳から溢れ落ちた。
あれ……?
「っ、失礼致しました」
ニコルを勇気づけられたらと思ったのに、逆に泣かせてしまった。
もしかして僕が見ていたことがバレた!?
けれど続く言葉にそうではないと知る。
「シリル様、自分は……貴方に仕えることができて、幸せです」
僕の応援は上手く伝わったんだろうか?
ニコルは漆黒の瞳に涙を浮かべながら満足そうに微笑んでいる。
すぐ我に返って一人で照れているけど、僕はそれ以上反応を返せなかった。
「ククの実の果汁です」
果汁で真っ赤に染まった布が口内に差し込まれる。
甘くそれでいて酸っぱい果汁は柑橘系を思い起こさせた。
また舐めては布を落とし、舐めては布を落とす……わざとじゃないよ!
ずっと指先からマナは放出させているけど、意識に反して手は動かせそうになかった。
寝たきりで完全に筋力が落ちてしまっているんだろう。
これはリハビリが大変そうだ。
でもこうして起きられたのだから、峠は超えたんだと思う。
だったら望みはある。
向上する気分に何気なく唇についた果汁を舌で舐め取っていると、目の端でニコルが微かに震えていた。
どうしたんだろう?
「シリル様、次にミルクは……」
「シリル! 目を覚ましたのですね!」
バンッと音を立て扉を開けた母様が僕に突進してくる。
実際にはベッドの傍に来ただけなんだけど、そんな勢いだった。
ふわりと揺れる金髪や明るい声は母様の活発さを表していたけど、見た顔には疲れが浮かんでいる。きっとつきっきりで僕を看病してくれていたせいだろう。
「奥様、あまり慌ただしくされては困ります」
「ごめんなさい、意識が戻ったと聞いたものだから。シリル、気分はどう? 悪くない?」
そっと両頬に手を添えられて、伝わる温もりに自然と目に涙が滲んだ。
あぁ、心細かったんだなぁと、そこではじめて自覚する。
直に感じる母親の温もりにポロポロと涙が溢れ……母様、母様と心の中で何度もその存在を呼んだ。
「ひっく、ぅぇ……っ」
「あぁ、シリル、大丈夫よ。大丈夫。母が傍にいますからね」
壊れ物を扱うかのように、そっと胸に抱き寄せられるまま身を預けようとしたとき。
「シリルゥゥウウ!!! 大事ないか!!!?」
野太い声が部屋に響き渡った。
「あなた、ちょっと黙って下さる?」
「旦那様、あまりの騒音はシリル様のお体に障ります」
父様の声を騒音扱いとか容赦ないな、ニコル。確かにうるさかったけども。
部屋に入るなり二人から冷たい視線を浴びせられて、一瞬で父様は小さくなった。
「お、おう……その……、加減はどうなんだ」
「少し前に目を覚まされて、水とククの果汁を召し上がったところです」
「そうか。シリル、父様だぞ。分かるか?」
無骨で節だった大きな手が頭にのせられる。
それだけでまた涙が溢れそうになった。
短髪でも目に映える真っ赤な髪を見間違うはずがありませんよ、父様。
父様は勤務地からそのまま飛んできたのか、汚れた魔法騎士の甲冑を身に付けたままだ。
「知らせを受けて、ジュールも明日には寄宿舎から帰ってくるだろう。兄様にもその元気な姿を見せてやってくれ」
二人を呼び戻す程度には、僕は危ないと判断されていたらしい。
できるなら兄様が戻ってきたときにも、痛みは引いていて欲しいと思う。
あの全身を引き裂くような痛みはもう経験したくない。今まで何度もあったことだとしても。
父様に頷こうと頭を揺らしたけど、上手く縦に動いたかは謎だ。
あまり動かすと目が回りそうだった。
「無理をさせてもダメね。シリル、体をベッドに預けなさい。母はここにいますからね」
「父様もいるぞ」
「あなたはまず汗を流してきてくださいな」
「う、分かった」
父様は完全に母様の尻に敷かれていることが僕にも分かった。
ニコルに怒られていたところも考えると立場弱くない?
「シリル、汗を流したらすぐに戻ってくるから、ゆっくり休んでるんだぞ!」
「旦那様、お静かに」
それでも愛があふれる家族に変わりない。
侍従も含め、優しい家族が僕の心の支えだったのだと改めて知る。
以前と違わない姿に安心を覚えながら、僕は静かに目を閉じた。
「おやすみなさい、シリル。良い夢を」
◆◆◆◆◆◆
次に目を覚ましたときには、父様をそのまま小さくしたような兄様がいた。寝ている僕の真横に。
ちゃっかりシーツの中にも一緒に入っている。
「お、シリル起きたか?」
ニカッと眩しい笑顔を僕に向けてくれるので、頬に残る涙の跡は見なかったことにする。
二才違いのはずだけど、体格は一回りも二回りも大きかった。
まだ少年っぽさが残っているものの、腕についた筋肉は大人のものと遜色がない。
剣の訓練をしているせいか、頬に小さな切り傷がついていた。
僕が久しぶりに会う兄様を観察していると、ニコルが水を含ませた布を持ってくる。
「シリル様、水分をお取りください」
「あ! オレ、オレがやる!」
「溢さないように気をつけてくださいね」
「おう!」
ニコルから布を受け取った兄様は、僕が体を起こすのも手伝ってくれる。
サバサバした見た目に反し、その手つきは優しく慣れたものだった。
今まで僕に張り付いてきた時間は伊達じゃないな。
そしてそんな兄様に、記憶の中で見たゲームの面影はない。
気の強そうなツリ目や整った顔立ちはそのままだけど、表情や僕を気遣う仕草なんかは優しさに満ちあふれていて、ゲームの兄様とはどうしても結びつかなかった。
「苦しかったらいうんだぞ」
「ん……」
まだ体に痛みは残っているけど、のた打ち回るほどでもない。
大丈夫だと目線の動きで告げて布を口に含む。
じわっと唇が濡れたのが分かった。
溢さないよう舌を動かすけど、今回は舐め取れなかった分が顎を伝う。
傍で控えるニコルがそれを拭き取る前に、兄様がちゅっと音を立てて吸った。
「悪い、ちょっと水が多かったな、気をつける」
うん。
兄弟だし、深い意味はないよ。うん。
前にも口移しでご飯を食べさせてもらったことがあるし。それは母様がしていたのを真似ただけっぽいし。
なんかニコルの目が笑ってないような気がするけど、それも気のせいだろう。
邪推する方がおかしいんだ。前までの僕なら疑いもしなかったんだから。
そういえば母様はどこに行ったんだろう? 父様も一緒にここにいるっていってたよね?
視界は兄様に占められているので、マナに意識を向ける。
ずっと放出し続けているマナは、ようやく部屋の端まで届くようになったらしく、壁際に連れ添って立っている両親の存在を教えてくれた。
そしてその前にはキャンバスに向かっているような人が。
「すみませんジュール坊っちゃん、もう少しシリル坊っちゃんが見えるように……有難うございます」
どうして絵描きがここにいる?
あと言動から察するに僕たちが絵のモデルのようだった。
寝ている間に何があったんだろう?
僕の困惑が伝わったのか、兄様が笑いながら答えを教えてくれる。
「具合悪いって聞いてたけど、戻ったらいつもより体調良さそうだったから、父様たちが絵に残そうってさ」
時間経過が分からないけど、多分半日から一日前は絶不調だったよ?
闘病のせいですっかり骸骨に近い見た目になっているのは僕も自覚している。
絵だから想像力で何とかなるんだろうか。
「オレもシリルが起きてる絵が増えると嬉しいし、ちょっとの辛抱な」
「ぅ……」
それをいわれると弱い。
まぁ気にするほどでもないかと絵描きの存在は忘れることにした。
描かれている絵と僕たちを見比べているんだろう、母様と父様は色々いい合ってるみたいだ。絵描きの邪魔になってないと良いけど。
「シリル、ククの果汁はどうかしら? 果汁の色が唇について綺麗だったわよ?」
「おおっそうなのか、ニコル」
「こちらに」
綺麗も何も僕、骸骨……いいや、ククの果汁美味しいし。
ニコルから今度は赤く染まった布を兄様が受け取る。
「まだ飲めるか? 無理しなくていいんだぞ」
やたらと甘い声音で聞いてくる兄様に、大丈夫だと眼前にきた布に自ら口を付けた。
愛されていることに不満はないけど、ちょっと過剰じゃないかな?
もしかして兄様が変わってしまう原因は、ここにあるんじゃないだろうか。
弟を溺愛しているからこそ、亡くしたときの反動も大きい。
僕の記憶に増えた、前世の彼と妹の関係に思いを馳せながら決意する。
兄様には早く弟離れをしてもらおう。
そして死に抗うんだ。
それが決められた運命だったとしても、せめて兄様を巻き込んでしまわないように。
僕は生きる努力をしよう。
「悪い、また溢したな……ちゅっ」
僕の肌を伝い流れるククの果汁に兄様が吸い付く。
何度も兄様の唇が肌に触れるのは流石に恥ずかしかった。
うん、早く弟離れしてもらおう!
もしかしたら僕は今、羞恥心というものもはじめて持ったのかもしれない。