character story

「次の相手はどなたですか?」

 道場に静かに響く、ハスキーな声に乱れはない。

「・・・ちょ、ちょっと・・・タイムッ・・・・・・」

 一方声をかけられた道場生たちは息も絶え絶えである。
 八杉龍太郎(やすぎりゅうたろう)を囲む30人の道場生は、皆一様に背中をつけ、肩 で息をしていた。
 その光景を、龍太郎の祖父であり、道場の師範でもある八杉末次(やすぎすえつぐ)氏は満 足気に眺める。

「とうとうお前の相手を満足に出来る奴はいなくなったか」
「師範はお相手をして下さらないのですか?」
「年寄りをイジメるでないよ。・・・私でも、お前の相手はもう務まらんだろう」

 年かの。ほぉっほぉっほぉと楽しげに老人は笑う。
 この狸ジジイが。胸に抱いた思いは隠し、龍太郎はただ目を細めた。
 そのまま視線を道場の外に向ければ、既に辺りは朱に染まっていた。
 気づかない内に時は軽やかなステップで走り去っていたらしい。

「そろそろ帰らないといけませんね」

 背後で龍太郎をひきとめる声があったが、龍太郎は気にした風もなく道場を出て行く。
 むしろ他に意識が支配されるようなものがあったのか。

「あれで高校1年生・・・先が楽しみですね。師範」
「うむ」
「どんな大人になるのか。男の中の男って感じで」
「うむ」
「既にモテモテなんじゃないですかぁ?いいなぁ、モテモテ人生・・・」
「うむ。・・・だがあいつも既に一人、頭が上がらん相手がおるからのぉ」
「え!?そうなんですか?誰です一体・・・・・・」




「慎里ッ」
「遅い」

 龍太郎が自室のドアを開けると、幼馴染が頬杖をついて待っていた。
 夕日を浴びて目を伏せる相手の姿に、思わず心臓が跳ね上がったが、すぐさ ま龍太郎もテーブルを挟んだ向かいに腰を下ろす。

「ゴメン、急に師範に呼び出されて」
「また道場生の相手?いっそ後でも継いだら?」
「それはちょっと・・・、小遣いもらう分にいいけどさ」

 龍太郎が急いで帰ってきたことは、汗じゃない水が髪から滴っているのを見れば分かる。
 スポーツ万能なこの男は、少しの運動ぐらいでは汗をかかない。
 慎里は龍太郎の頬に伝う水滴を袖で拭うと、軽く前髪を引っ張った。

「髪、乾かしてきなよ。俺も今きたばかりだし」
「これぐらい放っておけば自然に乾く」
「それぐらい不精するなって」
「・・・お前が嫌だっていうなら」
「・・・いいよ、もう。龍太郎がそんなに数学に絶望感を抱いているとは思ってもいませんでした」

 一学期、夏休み前の最大難関。
 念願叶って同じ高校に入学した二人には今、期末テストが待ち受けていた。

「理数系はどうも・・・」
「でも龍太郎なら焦る必要ないんじゃないか?何といっても模範生だし。平均はとれるだろ」
「文武両道が我が家のモットーなんでね」
「うわっ、嫌味」
「そういう慎里だって不得意科目ないじゃないか」
「普通に授業出て勉強してれば分からないことはないよ」
「本当にどういう頭してんだ?ボタン押したら開くとか、ないの」

 龍太郎の目に本気を見た慎里は、すかさず持っていた教科書で龍太郎の頭を叩く。

「だったらお前はどういう肉体構造してるんだっつうの。汗かかないとか、ありえないから」
「汗ぐらいかくさ。見てみる?肉体構造」
「ナルが出たっ!って、いい加減ノート開こうぜ、龍太郎くん」
「ちっ、バレたか」
「バレないでか。テスト勉強するために集まったんだから、観念しなさい」

 何かと話を逸らす、”学校では模範生”の龍太郎の軌道を直すのはいつも慎里の役目だ。
 現実逃避はいくらでも出来るだろう。
 けれど真面目が性分の慎里はそれを良しとしない。

「・・・ラキスも呼べば良かったかな?」

 入学して間もなく、運良く同じクラスになった慎里と龍太郎には共通の女友達が出来ていた。
 龍太郎と同じく文武両道の一面を覗かせる彼女に苦手な科目があるのかどうかは分からないが、 それはそれで自分たちの先生になってくれるのではないだろうか。

「男二人の部屋に女の子一人を呼ぶのもどうだ?俺が母さんに問い質される」
「それもそうか。今じゃすっかりクラスのマドンナだし」
「・・・・・・・・・」
「何?」
「・・・慎里がマドンナっていうと、ちょっとイメージが・・・。誰から聞いたの」

 慎里が自分で”マドンナ”なんていう単語を思いついたとは、龍太郎には考えられなかった。
 きっと誰かが口にしたのを聞いたに違いない。

「黒木会長。何か知り合いっぽかったよ、あの二人。『すっかりラキスはクラスのマドンナだな〜』て」
「会長が・・・・・・」

 黒木会長といえば学校を代表する生徒会長様である。
 その人望は生徒のみならず、教師にまで至るとか。
 一般生徒から見れば、住む世界が違うという印象を抱かずにはいられない。
 もはや崇拝の対象ともなりえる会長と慎里がどこで顔を合わせたのか・・・・・・考えられる のは一つしかなかった。

「実行委員会で?」
「うん、ちょうど龍太郎が用事で先に帰った日かな?待っててくれたラキスとかちあって」

 行事があるたびに召集を受ける実行委員を取りまとめるのは生徒会だ。
 生徒の自立を促すのがモットーな学校は、行事という行事の指揮権を全て生徒会にゆだねて いる。実行委員の会議に生徒会長が出席するのも自然の流れだった。
 よりによって自分が先に帰った日とは。
 別に自分の知らないところで慎里が誰と出会おうが関係のない話だが、それでは釈然としな い思いが龍太郎の中にはあった。
 幼馴染故の独占欲?・・・そんなものではない。
 いや、確かにそれもあるかも知れない。

 けれどもっと別の・・・・・・。

「龍太郎?」
「・・・あ、何?」
「何って・・・ずっとこっち見たまま固まってるし。怖い顔してる」
「ゴメン、ちょっとボーっとしてた」

 気持ちに名前なんてつけられない。つけられるもんじゃない。
 ただ一人、胸の中に・・・・・・持ち続けてる想いが龍太郎にはあった。

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